人間の普通の行動に対し病気を命名し、コントロールできる人格を形成する社会こそ今生きている世界
ここ20年ほどで、ADHDなどあまり聞いたことのない新しい病名が一般的に知られるようになり、精神的な面での問題が浮上してきた社会になりました。
そこで、実際にはそれは本当の病気であるのか、それともそれは人間の根本的な思考を書き換え、コントロールしやすい人格を形成するために用いている社会的な流れなのか。
そのあたりを、今の社会的背景と比べながら見ていきましょう。
ADHDは普通の人間の行動である
ここ最近は、日本でもADHDという病名を聞くことが多くなったように思います。
ADHDとは物事に集中できず、著しい多動などの症状が出るadhd(注意欠陥/多動性障害)、自閉症、アスペルガー症候群などが含まれる発達障害、というように定義されています。
しかし、それは本当は自然なこと(人間の本質的なこと)ではないでしょうか。
自然な現象を病気と認定することで、新しい人格の形成をすることができるからです。
ほとんどの人は毎日8時間仕事をします。会社勤めをしている人は8時間パソコンの前に座り続けて集中していると思いますか?
パソコンの画面を見ながら他のことを考えていたり、音楽を聴いていたり、ヘッドホン自体はスマホにつながれていることはないでしょうか?もし、そのような人がいるなら、医学的に見ればADHDの人を雇っていることになりますね。
しかし、一つのことに集中することができるのは、本当に好きなことならそれは苦ではないし、音楽など耳に入ってこないほど集中しているはずではありませんか?そして、もちろん一つの場所に何時間も留まることに対して何も感じず、むしろ幸福感を感じているのです。
では、刑務所の独房は、ある一定の狭い場所から出ることも動くことも許されない。本来、人間はそのような状況に苦痛を感じるようにできているのですから、刑務所の独房とはそのような作りになっているのです。では、会社で毎日8時間同じ場所に座らせているということは、ある意味パートタイムの独房生活とも言えませんか。
何が言いたいのかといいますと、ADHDとは本来、普通の人間の行動であるのにもかかわらず、独房のような仕事形態に対応できない人間を批判的に呼ぶことで、独房のように一か所に留まらせて集中させておく仕事を正当化させている、ということです。
健全な生活は、ある程度体を動かす必要があります。しかし、独房では歩き回ったりすることも許されない。それは、今の多くの会社の形態と同じだと気がつかなければいけません。
ここ数年で新たに聞くようになった病名とか、社会的に批判されるようなこととは、本当は人間にとって何の不自然なことではないのかもしれないということです。しかし、教育、社会の圧力、人の目、批判のコメントなどを畏れ、人々は他の人と同じ行動をしなければ、社会に認められない世界になってしまった。

個性を否定したり、本来の人間の在り方を否定する社会は、皆さんにとって心地よい世界ですか?
それは、会社の転職においても同じですね。ほとんどの会社の求める人材というのは、自分では行動を起こさない忠実なイエスマンです。自分で起業したり、自分の道を歩いてしまったり、いわゆる会社員というレールを外れてしまった人は、日本では会社という組織に戻れるチャンスはほとんど与えられないのが現状です。
そのような人たちは、いわゆるADHDと呼ばれたり、皮肉を込めた言い方をされたりしますね。
要するに企業側は、自分で何かを始める行動力、発想力、突き進む力、などそれらを持つ個人を認めたくないということなのでしょう。それらの人々は、枠から抜けだせない企業の人々にとって脅威になる可能性のある者だから、批判的なレッテルを張り排除しよう、ということなのかもしれまんね。(要するに、会社内での自分の席を確保するために、自分の居場所を脅かす異分子を排除するということです。)
アメリカ映画のDivergenceは、そのコンセプトとうまく描いていると思います。
もし、保守的な会社に異分子が入り、新しい発想やモノの考え方が生じるなら、会社は飛躍的に急成長するかもしれません。しかし、保守的な考え方である以上、そのような発想すらないのでしょうが。
過去30年の上海の発展や、過去20年のドバイの発展から学べること
1985年から2020年にかけ、上海は急激な発展を遂げました。2000年から2020年にかけてドバイでも急激な発展をしました。1985年には湿地帯だった上海は、今は高層ビル街。1995年には砂漠だったドバイは、今は高層ビル街。
さて、それまで先進国と呼ばれたきた国はどうでしょうか?この20年で、世界は大きく変わったのです。いつまでも保守的な思考のままでは取り残され、新しい者にどんどん追い越されて行ってしまうのでしょう。
それらの新しいもの(技術とかビジネスモデルとか)を、法律や規制などで抑えようとしても、彼らはどんどん新し発想と抜け道を見つけることでしょう。それに対応するには、自分たちも保守であるだけではなく、新しいことや今までとは違う考え方などを持った人々を取り入れていかなくては対応できなくなるのではないでしょうか。
それは、世界を見ればわかることです。しかし、保守的な思考だと、世界の成長すら理解できていないのかもしれません。
どんなスポーツにしても、攻めと守りの両方がありますよね?すべてがディフェンスではないはずです。フォーワードが存在するのではないですか?ここでなぜスポーツを例に例えたかと言いますと、ビジネスは商売であり、商売には売り手と買い手の2種類が必要だからです。
そこで、ADHDに話が戻ると、普通の人間にADHDというレッテルを張り、枠の中で生きることしかできない人間に育て上げた結果、中高年60万人が引きこもりになってしまい、2000年までの先進国が後退し始めたはじまりになったのでないですか。
もちろん、アメリカにも日本にも大企業が存在しています。しかし、その国の中の何%がその企業に勤めているのですか?もしほとんどの人口が苦労しているなら、数えるほどの企業が世界の富を独占していたところで、国全体は裕福ではありませんね。そのような状態こそ、規模は違うものの発展途上国の実態と同じです。
国全体が豊かであってこそ、先進国と呼ばれるべきではありませんか。
国益とは、国民全体が豊かに暮らせる社会をつくること
今の現状で社会から取り残されてしまっている人や、精神的苦痛を負っている人たちにとっても、働きやすい社会を築いていく必要があると思いませんか?
もちろん、会社が利益だけを追求して従業員の替えなどいくらでもいると考えているようなら、今後の日本社会において、貧富の差は広がり、社会に適用できくなってしまう人が増えてしまうのではないでしょうか。
貧富の差が生まれることによって、犯罪も増えるでしょうし、治安も悪くなるのです。そのような社会は、一定の人だけに富があっても、周りの環境が望ましい状況でなければ豊かではありませんね。
個人においては、どんなに能力があったても、その能力が発揮されていない分野で仕事をし、その能力を生かせていない人もいるかもしれません。そのような人たちが、初任給に戻らず、チャンスを与えられるような社会があったら素敵ですね。それこそ、前回の記事でご説明した、抜けられない専門職雇用の実態です。
日本の高度成長期、人々の新しい能力を発揮できた場所が、終身雇用制度における会社内の部署の移動だったのだと思います。

しかし、いま、既に始まってしまった専門職雇用の社会において、それをどう軌道修正していくか。
派遣とは専門職を非正規で雇う制度であり、本当に最悪な制度です。まず、それらを無くしていくことから始めなければいけませんね。
それが、国民全体が豊かな暮らしができるという、国益に繋がるのだと理解しなければいけません。もちろん、それは金銭部分だけの話ではなく、精神的な部分も含まれることです。要するに、一日8時間の独房生活のような仕事のやり方で精神の健康が保たれるのか、という人間の根本的な健全な生活を見直していく必要があると思います。
最終的に私たちが理解しなければいけないのは、国民の0.1%だけが富を独占する社会が豊かな国ではない、ということです。