貧しくても、自分を卑下せず、前向きに歩んでいる祖父のようになりたかった
児童文学作家の浅田宗一郎の祖父さんは、終戦後に南樺太から逃れてきて、関西の生まれ故郷に帰って来ることができたそうです。
そんな過酷な経験をしたおじいさんと一緒に暮らしてきた浅田さんの見る世界観が、コラムに書かれているのでご紹介します。
くじけそうになったとき、必ず祖母を思いだす、という浅田さんが、心の支えにしていることとは何でしょうか。
おごりたかぶらずに、自分の卑下せずに、ひたすら前向きに生きること
わたしの祖母は和歌山市の一般家庭に生まれました。祖父が僧侶の免状を取得したのは大人になってからでした。
祖父は、昭和の初めに開教史になりました。そして、当時、日本領だった南樺太の敷香に、「中道寺」を建立しました。
祖父は家族と力を合わせて開教に励みました。
ただ、充実した日々は長く続きませんでした。
昭和十六年。
太平洋戦争が始まったのです。
苦しみも悲しみを受けとめる
昭和二十年八月十五日。
太平洋戦争が終わりました。
しかし、祖父にとっては、「終戦」こそが、「開戦」でした。終戦直後、ソ連軍が南樺太に侵攻してきたのです。
祖父たちは身一つで避難船に乗りました。
そのときの状況を、私の母親は、「地獄だった」といっています。
全財産を失った祖父は、生まれ故郷の関西に戻って小さな寺を持ちました。
私は幼少の一時期を祖父のもとで暮らしました。
祖父は、南樺太を追われたとき、人生に絶望したでしょう。
しかし、祖父は一度も愚痴をこぼしませんでした。
言い訳もしませんでした。
祖父は、穏やかな表情で、ただ、ひたすら、お参りをしていました。
***
私は、祖父から「宗一郎はお坊さんになりたいか?」と尋ねられたことがあります。私は素直に首を縦にふりました。
ただし、私は、大きくて裕福な寺の僧侶にあこがれたわけではありません。小さな寺でも、貧しくても、自分を卑下せず、前向きに歩んでいる祖父のようになりたかったのです。
私がうなずくと、祖父は、透き通った眼差しで微笑んでくれました。
祖父は私が小学校六年生のときに眠るように息を引き取りました。
祖父は、晩年、地位も名誉も財産もありませんでした。
それでも運命を呪いませんでした。
決して、くじけませんでした。
祖父は、苦しみも悲しみも受けとめて、最後まで笑顔を忘れずに歩んだのです。
くじけずに、そして、前向きに
この世界はままなりません。
夢を叶えるためには何度も挫折しなければなりません。それどころか挫折を繰り返した末に敗北することもあります。
私もたくさん挫折を経験しました。「もうダメだ」と思ったことは一度や二度ではありません。
私は、くじけそうになったとき、必ず、祖父を思い出しました。
私にとって、祖父の笑顔は、「前向きに生きる人間の象徴」です。
私は、祖父の面影に励まされながら、一つひとつ、困難を乗り越えてきたのです。
***
わたしの人生の目標は、地位や名誉や財産を得ることではありません。
私は、今も、「祖父のような人間になりたい」と思っています。
それは、ままならない世界の中で、勝てなくても絶対に負けない心を育むことです。
おごりたかぶらずに、自分の卑下せずに、ひたすら前向きに生きることです。
***
私は、これからも祖父の清らかな笑顔をよりどころに歩んでいきます。
そして、大きな苦しみも、深い悲しみも受けとめ、はかなくてもかけがえのない命を、ずっと、ずっと、輝かせていきたいと思います。
児童文学作家・住職:浅田宗一郎
1964年、大阪府生まれ。龍谷大学卒業。2005年、『さるすべりランナーズ』で児童文芸新人賞受賞。著書に、本誌2015年12月号までの連載をまとめた『涙があふれて止まらないお話』『拭いても拭いても涙がこぼれるお話』『人生、どっしりとかまえる本』(PHP研究所)など。
出典:PHP平成28年9月10日号
【関連記事】