有名人のコラム

朝香光代『私は落語のおかげで引き出しが増えました』

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「じゃべり」は、どれだけ多くの引き出しを持っていて、お客さんに合わせていいネタを出せるかが勝負

「しゃべり」は、場の雰囲気をつかむことが大切だと語る朝香光代さん。

話の得意だというイメージがある朝香光代さんですが、若いころに落語家の弟子だったときにはまだまだ、寄席の場で笑いを取ることができなかったようです。

そこで、そのような経験をされてきた朝香さんのコラムをご紹介します。

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弟子を集めて座らせて小噺の練習をやったけど聞いてるのはサルだけ

浅草にある私の事務所の一階に、私の資料室「光代の楽屋」を開いたことは、九月号でお話しました。その資料室に、落語家の八代目(先代)桂文楽師匠からいただいた煙管きせるが飾ってあります。私にとっては思い出の品です。

先代の文楽師匠と出会ったのは、私がまだ二十代前半のころだったでしょうか。私の小唄の師匠と文楽師匠とが知り合いだったご縁で親しくさせてもらうようになったんです。「師匠っていわないで、おじちゃまっていいなさい」といわれたので、「おじちゃま」と呼んでいました。文楽師匠には、とてもかわいがっていただきました。

師匠が寄席よせに出るときは、私もちょこっと落語の小噺こばなしと踊りをさせてもらう。特に新宿の末広亭には、よく出させてもらいました。師匠のつてだからいいようなものの、本来なら私みたいな素人が寄席に出ることなど、許されなかったでしょうね。

末広亭の旦那さんはすごくいい人で、その時分、私が行くたびにお小遣いをくださいました。私が新橋演舞場で『勧進帳』をやったときなど、毎日、見に来てくださったんです。桟敷席を取って、お得意さんや芸者の連れて、みんなでひいきにしてくださいました。

先代の文楽師匠も、私が行くとお小遣いをくれる。そんなふうだったから、私は寄席や落語の世界にいる人たちは、ものすごく大金持ちだと思っていたんです。あるとき、先代(三代目)の三遊亭金馬師匠に「落語の世界は、お金があっていいですね」といったら、金馬師匠が大笑いして、「バカいっちゃいけないよ。落語界ほど貧乏なところはないよ」といわれたのを、いまでも鮮明に覚えています。

文楽師匠といっしょに出るので、師匠に恥をかかせちゃいけないと思い、私は一生懸命勉強しました。ところが勉強しすぎて、ただ筋を話すだけの落語になっちゃった。それでは、お客さんは笑わない。

うちの弟子を集め、「ちょっと聞いて」と私の前に並べて練習したんですが、みんな「また同じ噺か」という顔をするんです。つまらなそうなの。ただ、当時飼っていたサルだけが、ちゃんと聞いてくれた(笑)。私が毎日餌をやるから、きっと恩を感じていたんでしょうね。

寄席に出ても、あまりに客が笑わないものだから困ってしまって、サクラで吉原の芸者衆を呼んだこともありました。

「私が落語をやったら、笑ってね」と頼んでおいたのに、何を思ったのか、私が舞台に出て行ったとたんに「アハハハーっ」と大爆笑。ほんとうに、うるさいったらありゃしない。まだ何もやってないのに、どうして笑うのかしらね。

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「しゃべり」ができるようになったから今日まで座員を食べさせることができた

それはともかく、寄席に出て落語の小噺を覚えたおかげで、今では講演会に呼ばれても「しゃべり」ができるようになりました。講演会のお客さんは毎回違います。ときにはお客さんがなんとなく静かで、ご機嫌が悪いこともあります。

そういうとき、お客さんに「まいど、ごひいきに」とか、「暑いですねえ」とか、ありきたりの言葉をいっちゃいけません。こっちもすましてじっとしている。すると、お客さんも「あれ?」という感じでキョロキョロしはじめます。そのタイミングで「あんまりいい女が出てきて、びっくりした?」と聞いてみる。すると、うわーっと笑ってくれます。

笑いを取るのは、難しいということです。私も芝居だけだったら、今日まで座員を食わせてこれなかったんじゃないかしら。講演会やら、バラエティーやら、コメンテーターやら、いろいろな仕事をやれたのも、落語をやっていたおかげです。

「しゃべり」は、台本じゃない。その場の雰囲気をつかまなくちゃ。役者と同じです。それだけ多くの引き出しを持っていて、お客さんに合わせていいネタを出せるかが勝負。私は落語のおかげで、たくさんの引き出しが増えました。文楽師匠に感謝。

出典:健康365(2011年、11月号)

朝香光代さん

東京神田生まれ・14歳で朝香光代一座を組み、女剣劇の分野で活躍。1979年に演劇舞踊浅香流を創始し、家元として多数の門弟の指導に当たっている。北辰一刀流二段。2006年には、武蔵野学院大学の客員教授に就任。

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