だれもが安心して暮らせるために、社会の基盤を考えなおす必要がある。安心して暮らせる月給はいくら?
最近は、コロナ禍ということもあり、社会の在り方が変わり始め、失業をする人が増えてきました。また、仕事を探している人は、いつまでたっても仕事が見つからず、いつまでたっても苦しい状況にいるようです。
そこで、この国で起きている中途採用の差別についてや、人が生活していく上で月々必要な金額について考えてみましょう。
20代を過ぎると、子育てがあったり、家族の介護があったり、そしてコロナのように病気にかかってしまう人もいるかもしれません。そんな時、月給20万円で本当に生活できるのか、ということを真剣に考えてみる必要があるともいます。
中途採用や再就職に年齢制限を設けることは差別
この国では、仕事を探すときに年齢制限があります。私は20年ほど米国に住んでいて、そのような就職差別を見たことがなかったので、かなりカルチャーショックを受けています。
米国の企業では、数年育児に専念してから社会復帰する女性や、両親の介護を終えてから社会復帰する人、また自分で起業をするなど様々なチャレンジをしてからサラリーマンとして会社復帰する人など、様々な理由があってから会社という組織に復帰する人がいます。
しかし、日本ではそのチャンスがほとんど与えられていないように感じます。多くの会社では、年齢制限が35歳までだとか、なぜか年齢制限が存在しています。何か理由があって会社という組織にいられなかった人は、会社という組織に戻るチャンスが与えられてない社会がこの国にはあります。
それも、「郷に入っては郷に従え」ということで済まされていいのでしょうか?
35歳までの採用と年齢制限をしても、むしろ若い年齢層は数年の経験を積んでからもっとお給料の高い会社へ転職していく世の中になってきている状況にあると思います。ですから、年齢制限を35歳と定めた所で、彼らが終身雇用するとは限らないということに気がつかなければいけません。むしろ、中高年の年齢層の方が、在籍年数は長くなるのではないでしょうか。
また、募集要項に年齢制限が記述されていなくても、申請用紙に生年月日を記入させている時点で、既に年齢差別の対象にしていることがわかります。その年齢を見た時点で、採用の候補からはじき出されているのですから。
わたしが米国で過ごした20年、年齢に関係なく20代から50代まで新しい人材は常に会社に入ってきていました。むしろ、年齢、性別、肌の色、どんなことにおいても就職において、人を差別することは許されることではありませんでした。
もちろん、面接時に独身か結婚しているかなどと聞くことも言語道断です。そのような個人的なことは、その人が仕事に適しているかどうかには関係ないことですね。
ここで話していることは、アメリカのすることがすべて正しいということではなく、どんな状況にあった人も、どんな年齢層であっても、平等に就職の機会が与えられるべきではないですか、ということです。
この国の場合、多くの場合は女性だったり、40代以上の中途採用の方たちが、再就職に苦労しているようです。そんな中、どうやってU-ターンや、I-ターンの人を雇って地方再生するつもりなのでしょうか?
そこで、「時給800円の仕事ならいくらでもあるだろ!」という声を聴きますが、時給800円で週40時間働いて、32000円。一か月働いて128000円です。その時点ですでに生活保護の金額より低く、そこから税金や保険や年金をひかれ、家賃などの生活費を払ったら最低限の生活すらできません。もし、2個のフルタイムの仕事をしても月25万円です。
もし、子供がいたり、家族の介護をしたり、それぞれにいろいろ避けて通れない事情があると思いますが、そのような状況において月々20万円以下の手取りの給料で暮らしていけますか?
日本は月給20万円以下の仕事は普通だから、ということで済ませてはいけない問題です。このような状況が貧富の差を拡大し、どんなに働いても豊かな暮らしができない人が大勢いる現状になってしまったのではないでしょうか。
解決策はベーシックインカム
そこで、解決策がベーシックインカムです。
ベーシックインカムとして全員一律でお金の配給があることがふさわしいと思いますが、または公務員(国会議員)の給料以下ならベーシックインカムで生活の補助がされるべきです。国会議員以上の給料なら、ベーシックインカムなどでの生活補助は必要ない、というようにどこかで線引きをして苦しい状況にある人を救う必要があると思います。
どうして線引きが国会議員なのか?国民の代表者として国会に立つ人間も一般国民も同じである必要があり、国会議員は特別な人間でもなければ上級国民でもなく、それぞれの地域の代表発言者に過ぎず、全ての命は平等だからです。
月々300万円近くの月給をもらえる国会議員と全ての国民の支給額を同一にするのはおかしいと思うのなら、国会議員の給料はもらいすぎではないかという問題を解消する必要があるのかもしれません。
それは、どんな会社においても、それぞれの仕事が欠けたら困るように、仕事に応じて給料を変えていることはどうなのか、という問題に繋がってくると思います。どんなに優れたエンジニアでも、トイレを利用しています。トイレを掃除する人がいなくはその会社が清潔を保つことができません。
組織の中で何か一つの仕事が欠けたら、スムーズに回らなくなるのです。
インターネット通販の会社においても、どんなに優れたエンジニアがいても、そこに商品を配達する人がいなければ、商品はお客さんのところに届かないように、どんなことでも何かの仕事が欠けるなら会社は回らないのです。ですから、その会社のなかでこの人は高い給料で、こっちは低い給料で、という差をつけることはどうなのか、ということを見直すことも必要です。
なぜなら、今の社会では、だれもが生きるために、税金、家賃、水道光熱費、食費などを支払うことが必要なのですから。。。
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国税局の税務大学校は国家公務員としてお給料をもらいながら勉強する
わたしは以前、東京国税局という所で働いておりましたが、国家公務員試験の後、税務署に配属される前に税務大学校という所で勉強しました。そこでは、憲法や民法などの法律は東京大学などの教授から学び、税法は国税局の先輩方から学びました。もちろん、3食付きの全寮制で、お給料をもらいながら勉強するのです。
そして、13か月の全寮制の税務大学校での研修が終わったあと、現場である税務署に配置されて仕事をしました。その時にも国から支給される寮に入って生活していましたが、家賃は3000円でした。(公務員は一般と同等の給料をもらっていても、家賃は数千円です。)
そこで、医療など、医者・看護師・介護士などの人々も、最終的に国家資格が必要になるのですから、税務大学校のようにお給料をもらいながら勉強できるシステムにするのもありなのではないか、と思うのです。
医療は、国民にとって必要なことであり、その学費を支払える者だけがなれる職業ではなく、そのような必須職業への門を広く構えることが大切なのではないでしょうか。特に、介護に対しては、家族が介護をせず人任せにしている時代ですから、そのような介護系の職業も税務大学校のような制度が必要なのかもしれません。
(もしくは、ベーシックインカムを取り入れることによって、家族が家族の介護をする人が増えるかもしれませんね。だれかの介護をしていても、その生活を保てるだけの収入があるわけですから。そこで、仕事もしないでお金を使うだけなんてずるい!という意見は、間違った発言です。資本主義や商売というのは、売り手だけでは成り立たないのですから。売り手と買い手の両方が存在しない限り、その資本主義市場は存在できない、という根本的なところを理解する必要があります。)
もし、医療が公務員的なものなら、患者さんはお客さんではなくなるかもしれない。現在、病院は慈善事業ではなく、利益を追求する場所ですから、お客さんが来なければ病院は成り立ちません。となると、国民がみんな健康になっては困る人たちが病院というところです。
しかし、もし、病院が公務員制度なら、保険などの負担も少なくなり、税金で賄わなければいけないという状況に陥れば、病気の人もかなり減るかもしれません。多くの人が健康に生きるための努力をするだろうということです。
要するに、発がん性の物質の食物(人工甘味料など)やアルコールなどのように体に害になる物はこの国から排除されることになり、最終的にはガンの患者さんも減ることになるだろうということです。

また、健康意識を高めるために、運動することや、健康的な食べ物(野菜や果物)の摂取が増え、この国の農業の支えになる根本的な所も確実なものになります。
今までと同じ職業を保ちながら社会を回すにしても、その仕組み自体を変えるなら、全く新しい社会を築くことができます。「搾取から提供」に変えるだけで世の中はまったく違う世界になるのです。

資本主義という社会の在り方が「搾取」を基礎に置いているから、そこに犯罪まがいなことが起きていたり、どれだけ利益を上げるかに集中するからこそ、発がん性物質などが世の中に蔓延する世界になってしまった。
人を憐れむことを優先する社会なら、体を蝕むような食物は市場になかったでしょうし、環境に良くないものも市場に存在していなかったかもしれません。いまの世の中はすべて、利益を優先にしてきた慣れの果ての貪欲の世界です。
だからこそ、資本主義を慈善主義に変えていくときにいるのではないでしょうか。皆さんは、どう思いますか?現状維持が好ましいですか?それとも、人が人を憐れむ社会が必要だと思いますか?
