人にはそれぞれ得意・不得意があり、みんなが得意なことをやればトラブルは生じない
人には得意なこととか、不得意なことがありますね。でも、得意だったとしても、好きなことではないかもしれない。
自分にとって好きなことが、得意なことになる生活を送れるなら、それほど幸せなことはないかもしれません。
絵本作家の五味太郎さんは、ご自身の生き方や、息子さんが選んだ選択についてコラムに書いていますので、ここでご紹介します。
「普通」なんでいう言葉は、勝手に決められた幻想みたいなもの
世の中、いろんなトラブルが起こっている。仕事の上でのトラブルもあるし、日常生活の中にもたくさんトラブルが起こっている。どうしてこうもトラブルだらけなのか。その根本的な原因を考えたときに、不得意なことを無理してやってるから、それがトラブルにつながるのだと僕は考えている。
たとえば交通事故にしてみても、運転が得意な人ばかりだったら、事故は起こりにくいような気がする。運転が不得意な人間が乗り回すから、それが事故に繋がってくる。練習すれば上手になると思いがちだけど、僕はそうは思わない。いくら練習したところで、不得意な人はやっぱり不得意のまま。人にはそれぞれ得意・不得意があるんだから、得意なことをやることが大事じゃないかな。
人には得意・不得意がある
僕が今とても幸せなのは、得意なことをやっている仲間に囲まれているから。コンピューターが得意な者もいるし、写真を撮るのが好きでたまらないという者もいる。数字を扱うことが好きで、経理が得意という人間もいる。そして僕は絵本をつくることが得意だから、絵本のことは任せておけと言っている。三日もあれば一冊描いてやるよと。それぞれ得意なことをやり、互いにその技術を認め合っているのだから、そこにトラブルなど生まれようがない。
もちろん、楽に仕事をしているわけじゃない。何日も徹夜をして絵本を描いていると、目はショボショボしてくるし、腕だって上がらないほど疲れてくる。それでも僕は仕事を続けることができる。
それは、絵本を描くことが得意だから。だから、僕は誰かから「すごく頑張ってますね」と言われてもピンとこない。別に自分で頑張っているとは思っていないからだ。取り立てて頑張らなくても、得意なことをやっているんだから、できて当たり前。つまり、頑張らなくちゃできないということは、その仕事に向いてないということ。自分に向いていることをやっていれば、頑張るなんていう発想はでてこないと思っている。
それぞれに得意なことがあり、向いていることがある。それはどんな人にも絶対にある。それが何かを、小さい頃に見つけさせてあげることが大事だと思う。今の教育は、不得意なことを押しつけ過ぎだと僕は感じている。
算数が苦手な子は、無理してまでやる必要はないし、理科が好きな子は理科ばかりをやっていたっていいじゃない。確かにそれは現実的には難しいことだけど、せめてその子の得意なことを褒めてあげることが大切だと思う。「僕は成績は良くないけど、プラモデルづくりがとっても得意なんだ」と、そうはっきりと言える子は、きっと自信をもって生きていける。それが幸せな生きかたじゃないかな。
自分の質を見つける
僕には高校生の息子がいる。中学のときから柔道をやっていて、結構強いらしい。周りからは期待されていたという。なのに、高校生になってしばらくして、息子は柔道をやめた。どうしてやめたのかと聞くと息子はこう答えた。「あのさあ、僕は戦う子じゃないんだよね」と。その答えに僕は思わず笑ってしまった。そして、とても嬉しくなった。こいつは、自分がどういう質の人間かを見つけたんだなと感じたからだ。
人間にはそれぞれの質がある。戦う質の人間もいるし、戦うのが嫌いな質の人間もいる。自分はいったいどういう質をもっているのか。それを見るけることがとても大事だと僕は思っている。
いろんな経験を通して、早くに自分の質を見つけること。そしてそれに正直に生きていくこと。子供自身が気づいた自分というものを、親は全面的に認めてあげること。それが大切だと僕は思う。他人に迷惑さえ掛けなければ、自分の質に合った生きかたをすればいい。他人と比較する必要はないし、まして他人から強制されるなんて真っ平御免だ。
だから、僕は「普通」という言葉にとても違和感を感じる。子供は学校へ行き、父親は毎朝会社に出かけて行き、母親は家事をする。それが「普通」の家庭だという。どうしてそれが普通なんだろう。誰がそんなことを決めたんだろう。自分たちがそうしたいなら、もちろんそうすればいい。でも、「普通」だからしなくちゃいけないというのは嘘だ。「普通」なんでいう言葉は、勝手に決められた幻想みたいなものだと思う。
多摩川の川原に行くと、そこで暮らしているホームレスがいる。僕はその中の一人と仲良くなった。「俺、本当は八王子に家があるんだよね。でも、帰りたくないんだ」と彼は言った。彼にとっては、川原で寝ることや、日がな一日釣りをしていることが普通なのだ。ふと見上げると、鉄橋を電車が走っている。ネクタイを締めたサラリーマンたちが、すし詰めになって運ばれて行った。対照的なその風景を見ながら、「はて、どっちが普通なんだろう」と僕は思った。
時間はいくらでもつくれる
僕は数年前に草野球のチームをつくった。ついこの間も、二チームに分かれて試合をした。試合開始は夕方の五時。それも平日だ。ウィークデーの夕方だというのに、三十六人の仲間が集まった。早く仕事を済ませて駆けつけた者、試合が終わってから会社に戻る予定の者、職種もバラバラな仲間が集まってくる。
年齢から性別ももちろん様々。とにかくそこにいることが楽しくて仕方がない。ルールだって適当なものだ。外野を三人で守るだけの体力がないから、「よし、今日は外野は四人な」と決める。さすがに三塁から二塁に行くのは反則だけど、ルール変更は自由自在だ。ここでは「普通の野球」は通用しない。
そうして試合が終わって、野球場の管理人さんにお金を払いに行った。すると管理人さんはしみじみと言った。「あんたたち、ほんとうに楽しそうだね」って。そりゃあそうだろう。実際に楽しくてしかたがないんだから。楽しむことは、そんなに難しいことじゃない。心から好きなことを思いっきりやる。ただそれだけのことだ。
そのための時間なんて、いくらでもつくれるものだ。頑張って仕事を早く切り上げるのもよし、楽しみのために仕事を翌日に持ち越すのもよし、自分自身で決めればいいことだ。そのときに何が大事なのか。今何をやりたいのか。それぞれが自分で選べばいいことなんだと思う。普通はどっちかを選ぶのかなんて、そんなことは考えないで、自分の気持ちに聞けばいいことだ。その積み重ねこそが、人生を楽しむコツなんだと僕は思う。
さっきも仲間から電話があった。明日の六時から麻雀をやろうという誘いがあった。もちろんすかさずOKと言った。はて、それまでに仕事を終わらせることができるだろうか。一瞬で考えたけど、終わらせる自信がどんどん湧いてきた。きっと終わらせることができる。だって、僕は絵本をつくるのが得意だから。
絵本作家・五味太郎さん
1945年、東京都生まれ。67年、桑沢デザイン研究所卒業。工業デザイナーを経て絵本を中心とした創作活動に入り、数多くの作品を発表。サンケイ児童出版文化賞。ボローニャ国際絵本原画展賞など、国内外の絵本賞を数多く受賞している。
出典:PHP平成28年9月17日号
絵本作家の五味太郎さんに取る普通とは何かのまとめ
ここでは、絵本作家・五味太郎さんのコラムをご紹介しました。
五味さんのコラムからは、不得意なことに対して悲観的に思う必要はないし、得意なことに注目しそれに対して自信をもっていけばいいのだと励まされた気がしますね。
また、五味さんの息子さんのように、得意なことであっても自分の好きなことでなかったら、無理をしてその道へ進む必要はないし、自分の好きな方向へ進むことが大切だと教えられた気がしますね。
また、人間の生活にとっての「普通」とはなにかを、考えさせられるものでした。特に今の時代には、その当たり前のように存在している「普通」に疑問点を持つことが大切なのかもしれませんね。
「普通」と思って行っていることが、本当は地球に対しても、環境に対しても、人間の心に対しても良くないことであったりする、ということに気がつく必要がある時期にいるのかもしれません。