「普段からやるべきことをやったら、ここ一番のときも大丈夫やから」と前向きに生きる
80年代以降、テレビでよく見るようになった「今いくよ・くるよ」の漫才師のお二人。
二人は、高校時代の同級生だったようです。そして、その当時の部活動の厳しさが、漫才師へなるために『諦めない根性』の基礎になったようです。
相方をがんで亡くされたタレントの今くるよさんの思いが語られているコラムがありましたので、ここでご紹介します。
いつも明るい今くるよさんですが、彼女が本当にタフな心の持ち主だと尊敬するのは、相方のいくよさんでした。
私は、そもそも暗いのが嫌いなんです。いつも笑っていたいし、周りの人にも笑っていてほしい。でも本当に明るかったのは、相方のいくよちゃんのほうです。いっつも笑顔で、あんなに心の強い人は見たことがない。
がんで入院中のときも、弱いところを見せなかった。私が病院に顔を出すときは、いつもあらかじめキチっと座って、「おはよう!」と明るく迎えてくれてたんです。
亡くなる数日前も、ずいぶん体力が落ちているなかで、看護師さんが「お名前をお願いします」と言ったら、「さとやまさこ。二十八歳です!」と言って、みんなを笑わせてくれた。すごい人やと思いました。
いくよちゃんが亡くなったあとしばらくは、ただただ途方に暮れました。大好きだった観劇や映画鑑賞もする気になれない。テレビも見られない。気がついたら日が暮れている・・・・。思えば私の隣には、ずっといくよちゃんがいたんですよね。
やめろと言われても、あきらめない
いくよちゃんと出会ったのは、高校時代です。二人とも、ソフトボールの強豪・京都の明徳商業高校(当時)のソフトボール部でした。
その練習が、とにかく厳しかった!毎日夜遅くまで練習で、当時は水も飲んだらダメ、泣いても笑ってもダメ。思い返しても、その三年間ほど辛いものはありませんでした。
吉本に入ったのは、高校卒業後に知り合いから「吉本が漫才師を募集してる」と聞いたからです。でも面接の結果は、全然ダメ。面接官全員から「やめとき」と言われました。
が、やめろと言われたら燃えるのが体育会系です。「根性も貯金もあるから大丈夫です!」と言い切って、島田洋之助・今喜多代師匠に弟子入れさせてもらいました。
そこからが長かった。師匠や先輩からは起こられてばかりやし、やってもやっても売れへんのです。お金もなくなるから、ガソリンスタンドや喫茶店で必死にアルバイトをして。
でも、辛いとはまったく思わなかった。二人とも、「あのソフトボール部の練習に比べたら、何でもあらへん」と思っていたんです。
そして十年目。転機がやってきます。当時の大スター、やすしきよし師匠が出演する大人気番組「花王名人劇場」に出演するチャンスが飛び込んできた。うれしかったけど、じつは「ここでウケなかったら芸能界に見切りをつけよう」と二人で考えていました。
当時は二人で気合を入れて、「それいけーっ」と舞台へ出て行きました。必死やから力が入ったんでしょう。私がお腹をボーンと叩いたら、ベルトのバックルが弾けて飛んだんです。それでお客さんがドッと笑った。いくよちゃんも、つけまつ毛をパタパターっとさせて、首の筋が浮き上がって。それを見て思わず、「あんた、首に筋が出てるやん」「御堂筋や!」と。私たちを支えたギャグ誕生の瞬間です。
悔いが残らないよう、全力でやったらウケた。それからは信じられへんくらい仕事がきて、二人で全力で駆け抜けてきましたね。
やるべきことをやれば、ここ一番も大丈夫
いくよちゃんにがんが見つかったとき、私は謝りました。ずっと一番近くにいたのに、全然気づけなかった。でも、彼女は逆に私を励ましてくれたんです。「普段からやるべきことをやったら、ここ一番のときも大丈夫やから」と。本当に前向きな人でした。
彼女が亡くなるときのことです。心拍がだんだん弱くなって、もう(止まった)-。そのとき、私は出せる限りの大きな声で叫びました。「大丈夫かー‼」と。
そしたら、ピクッと動いたんです!感動しました。あれはきっと、「ありがとう」と言ったんやと思う。そこまで周りに気を遣う、素晴らしい人でした。それを思うと、私も頑張らんわけにはいかんでしょう。
いくよちゃんと漫才はもうできないけど、私なりにできることをやっていきたい。私はお客さんが大好きやし、大笑いしてもらいたい。いくよちゃんも、「くるよちゃんは明るくて、どこへ行っても喜ばれるんやさかい、大丈夫。一人であかんかったら私が空から突っ込むし」と背中を押してくれてる気がします。
誰よりも、そして最後まで前向きやったいくよちゃんを見習って、これからも笑顔で生きていきたいと思います。
タレント・今くるよ
京都府生まれ。1970年、島田洋之助・今喜多代に弟子入りし、73年、漫才コンビ「今いくよ・くるよ」を結成。81年、上方お笑い大賞金賞、82年、花王名人大賞最優秀新人賞などを獲得し、80年代以降の漫才ブームを牽引。
出典:PHP平成28年9月10日号