有名人のコラム

俳優・近藤正臣『人と運に恵まれて、ここまできた』「真田丸」本多正信役

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人と運に恵まれてきて、どうしたら人と渡り合えるのか、わかりあえるのかについては考えてきました、という近藤正臣さん。

NHKの大河ドラマ「真田丸」に本多正信役で出演されていた俳優の近藤正臣さん。若いころは、セブンティーンや明星というアイドル雑誌にも出られており、今では俳優歴55年のベテラン俳優です。

近藤さんは、若いころ京都で育ち、高校生のときには学生と警察隊との衝突にも参加されていたそうです。

そのような、生い立ちから現在の俳優生活に至るまで、どのように過ごしてきたかの近藤正臣さんのコラムがありますので、ここでご紹介します。

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いかに役作りをしたとしても、それは見せない。表に出たものだけを感じてもらえばいい。

役者になって五十五年になるんですねえ。大した努力もせず、牛のヨダレのようにだらだらと続けてきただけなんですが(笑)

人と運に恵まれてきたと思います。どうしたら人と渡り合えるのか、わかりあえるのかについては考えてきました。ケンカでもいい、穏やかに結ばれるのでもいい。いずれにしても、人との距離感は大切です。この人とはどのくらいの距離感がいいのか、相手はどんな距離感を望んでいるのか。一人一人違っていてむずかしいけれど、それを察知して相手に合わせていく。それによってわかりあえることが増えていく。そういう意味では、オレ、サービス精神が結構あるほうじゃないかな。

私が通った京都・木屋町の小学校は、親がサリーマンという子どもがいなかった。医者や理髪店、古書店など、商売をやっている家の子ばかりだったんです。うちの母親も元芸妓げいこで、小料理店をやっていました。そんな環境でしたから、小さいときから大人たちの挨拶を見てきた。

「お出かけですか」
「ええ」
「お天気がよくてよろしなあ。どちらまで?」
「ちょっとそこまで」

出かけるのはわかっているはず。どちらまで、に対して、ちょっとそこまで。これ、会話として成り立っているのかなあと思ってた。でも「挨拶」ってそういうものなんですよね。深く詮索しない、だけど親しく声はかける。

遠からず近からずの関係を保っておくだけで、いざというとき助け合える。生まれ育った京都という町で、人との距離感を学びました。

「正臣、あんた、私の最後のオトコにおなり」

昔は今より女性の恋愛事情は厳しかったと思うんです。でも、私の母は発展家でしたね。母はオトコはんが好きで、すぐ惚れてしまう。芸妓のときに落籍ひかされて結婚して、亭主に死なれて京都に戻ってきて、またオトコはんに惚れて私が生まれて。

小学校二、三年生のときでしたか、「うちにはなんでお父ちゃんがいいひんの?」と聞いたら、最初は戦争に行って帰って来ないと言っていたんですが、だんだんウソをつき通せなくなった。

「あんたが生まれて二年くらいで死んではんねん」
「なんで写真がないの?」
「あるとこにはある。清水に行ってみ」

清水寺の中の茶店が本妻さんの家だった。行きましたよ、私。そうしたらおかみさんが、「なみさんの子やろ」と。母のことも知っていたんですね。父の写真を見せてもらったりして、それ以来、たびたび遊びに行くようになりました。年上の兄や姉が四人いましたが、みんな親切でしたよ。行くと水汲みさせられたりもしましたが、逆に言えばまったく差別などされなかった。

まあ、母はそれからもオトコはんを好きになっていましたね。思春期の多感な時期に、そういう母を嫌だなと思おうとしたんですが、やっぱり嫌いにはなれず、「おかあちゃんはええ女なんや、だからモテるんや」としか思えなかった。

それでもだんだんと年をとってモテないようになっていく。体もきついし店もやめたいと言い出しました。そのとき言った言葉がすごかった。

「正臣、あんた、私の最後のオトコにおなり」

ドキンとしました。「比叡山の中腹に小さな家を建てて住みたいねん。土地は見てきた」というので、聞いたらなんと二百坪(笑)。半分にせえとは言えません。しょうがないですよ、最後のオトコですから、そこに家を建てました。母は毎日、その家で店をやっていたときのお客さんを招いて、八十八歳で亡くなるまで宴会三昧。本当におもしろい、ええ女でした。最後のオトコになれてうれしかったですね。

役作りは、見せるものではない

私自身は、六十年安保のときに高校三年生。親への反抗はなかったですが、大人社会への反抗はありましたね。京大や同志社大学の学生たちが高校生をも巻き込もうとしていて、私もしっかりひっかかって・・・・。それが初めて関わった大人の世界。知らん人と手を組んで、一緒に竹の棒を持って警官隊と衝突したりしてました。政治家だの会社の社長だの、エラいひとにはろくなもんがいないと思ってた。

当時の大学生たちは、サルトルだのボーヴォワールだの真剣に議論していました。私はエルヴィス・プレスリーがすきだったけれどコケにされた。「モダンジャズを聴かなきゃだめだ」って。芝居もちょうどアングラが盛んだったんです。高校時代、芝居をやっていたので東京で流行っていた唐十郎さんの状況劇場などには興味がありました。

でも役者になれるなんて思ってもいなかったから、母の店を手伝おうと思って、大阪の吉兆に修行に行ったんです。だけどあの頃の和食料理業界は厳しくてね、大人への反抗がありましたから三か月で辞めました。京都でアングラ劇団を作ったり、京都の松竹でエキストラをしたり。なかなか思うような仕事には巡り会えませんでした。

十九で役者になり十年、転機が訪れました。ドラマ「柔道一直線」で主人公のライバル役を演じ、急に『セブンティーン』や『明星』といったアイドル雑誌の取材やグラビア撮影が増えたんです。ちょっとうれしかった半面、ここで終わったなとも思っていた。花火ですよ、どかんと上がって後は消えていくだけ。だって現実にはもう結婚して子供もいたのに高校生の役をやって、しかも足でピアノを弾いたことが話題になって・・・・・。それで人気が出たとしても花火としか思えない。

ただ、その後、運よく立て続けに木下恵介さんのドラマに出してもらえて、とても勉強になりました。木下さんのようなエラい人でも、ええ人はいはるんやと感じ入ったものです。ありがたかったですね。

さらに一九八五年、ミュージカル「ラ・カージュ・オ・フォール」でザザという役で女装もしました。最初は、ザザのパートナーの男性役だと思っていたんです。打ち合わせに行ったら、「ザザだよ」と。びっくりしました。決してきれいなザザではなかったけれど、この役を演じたことで、もう何でもありだなと腹をくくれた。

どんな役をやりたいとか、あまり自己主張をしたことはないんです。気張らんとふわふわとやってきた。今現在、ここに自分がいるのが信じられないくらい。だから、人と運に恵まれてきたなと思います。

若いときは、「オレの芝居のここを見てほしい」という欲がなかったといえばウソになる。だけどそんなことをしても、見ている人に訴えることにはならない。それがだんだんわかってきたんですね。いかに役作りをしたとしても、それは見せない。表に出たものだけを感じてもらえばいい。今はそう思っています。

無理に老いにはあらがわない

岐阜県の群上八幡ぐじょうはちまんの自然に魅せられ、年のうち四ヶ月くらい住んでいます。渓流づりをしたり園芸を楽しんだり。最近は、ときどき川に落ちたりはまったりするんですよ。頭が覚えていることが体にうまく伝われない。年齢なんでしょうね。ただ、そういうことが嫌だからって、鍛え直そうとは思わない。自分の体に合わせた行動をとっていくしかないんですよね。無理に抗おうとはしません。

郡上八幡で過ごしていると、スピーディーに動くものより、ゆっくり変化するものに目が行くようになりました。冬の間に葉が落ちた樹木は、春になったら繁るために二月くらいからちゃんと準備してる。つい先日までなかった芽が、今日は枝いっぱいに見つかる。そういうのがいいなあと思うようになりました。

五十歳になったとき、昔は人生五十年といったから、あとは「どう死ぬか」を考えていこうと思ったんです。そこで日本尊厳死協会に入りました。嫌なんです、全身にチューブをつけられて生きているのは耐えられない。長生きもけっこうだけれど、寝てる人もきついやろなあといつも思います。だから私は、延命措置はしたくない。

古希といわれる年齢を超えて、なるべくじたばたせずに、自然と死ねたらいいなあとは思っています。生まれて死ぬのは自然の摂理だから。ただ、こればかりは自分でもわからない。もしかしたら、最後に思い切りじたばたするかもしれませんが(笑)。

俳優・近藤正臣こんどうまさおみ

1942年、京都市生まれ。66年、今村昌平監督「人類学入門」でデビュー。ドラマ「柔道一直線」(TBS)で、足でピアノを弾くシーンが話題となりブレイク。その後、ドラマ・映画・舞台・CMなど多方面で活躍。最近の出演作は、テレビドラマ「どちそうさん」「あさが来た」(NHK)、映画「龍三と七人の子分たち」など。大河ドラマ「真田丸」(NHK)では、本多正信役を演じる。

出典:PHP平成28年8月10日号

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