現役時代、いつも不安と恐怖と隣り合わせだったという宮本さんは、どう気持ちを強く持ったのでしょうか。
プロ野球の選手になりたいと、学生の頃から甲子園の強豪校ヘ進み、大学、そして社会人を経験してプロ野球選手になった、プロ野球解説者の宮本慎也さん。
プロ野球選手として恵まれた体ではなかったという宮本さんですが、どのようにしてプロ野球選手になっていったのかの経験談を書かれたコラムがありますので、ここでご紹介します。
自分ができることを怠らずにきっちりとやることが大切
身長176センチ、体重68キロ。ヤクルトスワローズに入団したときの私は、プロ野球選手としてはけっして恵まれた体格ではありませんでした。当時の野村克也監督に初めてかけられた言葉が、「おまえ、そんな身体で野球ができるのか」だったくらいです。
子どものころからプロにあこがれ、プロ野球選手になることを夢見てきました。高校は甲子園の常連校であるPL学園に進みました。多くの先輩方がドラフトで指名され、プロで活躍しています。
「早くプロになりたい」と思う一方、そのときの自分ではプロでは通用しないこともわかっていました。まずは大学野球で力をたくわえようと、同志社大学に進学。このとき出会ったのが野口真一監督でした。
「相手のことを考えてプレーしなさい」
これが野口監督の教えでした。たとえばショートの守備でダブルプレーを取ろうとするとき、ゴロを待って取るのと一歩でも前に進んで取るのでは、セカンドが一塁へ送球するときのプレッシャーがちがいます。
つねに相手のことを考える意識を持ち続けることで、守備に磨きがかかったのだと思います。その後、社会人を経てヤクルトに入団できたのは、この守備力のおかげでした。
結果が出なければ、来年はない
ただ、私にはバッティングに課題がありました。プロで通用するだけの技術もパワーもない。そこで心がけたのが、チームバッティングです。長打は打てなくても、犠打や進塁打などで勝利に貢献することはできます。
また、同じ右方向への進塁打でも、セカンドゴロに終わるか、一・二塁間を破るヒットになるかでは大違いですから、ヒットにつながるような練習を積むことが大切だと考えました。「結果が出なければ、来年はない」私には、遊びや息抜きに時間を費やす余裕は全くありませんでした。
はじめて規定打席に達したのは入団三年目。打率は二割八分二厘でした。その後、臨時コーチとして来られた中西太さんの指導をきっかけに、三割台をうてるようになりました。二〇一二年には二〇〇〇本安打を達成。正直、自分でもここまでの成績を残せるとは思っていませんでした。
バッティングの調子には波があります。いいときもあれば、悪いときもある。「絶好調だ」と思えるようなときはピークであって、そこから下り坂が始まるのです。調子がよければ「いつ打てなくなるだろうか」という不安が顔を出します。悪いときには「早く調子を戻さないと」という焦りが生じます。
気持ちに違いはありますが、実はやるべきことは、どちらの時も変わりません。技術を上げ、ヒットになる確率を高める練習をくり返す。それに尽きるのです。
たとえマイナス思考でも大丈夫!
いつも前向きに、プラス思考で考えられる人は、それでいいでしょう。ところが、私自身は性格的にマイナス思考なのです。「いつか打てなくなるのではないか」「レギュラーの地位を失うのではないか」という不安・恐怖と隣り合わせの毎日を過ごしてきました。
だからこそ、悪いときのことを想定し、そうならないための練習をしたり、そこから脱っするための対策を立てたりできたのです。
バッティングの調子が悪くても、打つための準備はできています。チームが連敗を重ねて出口が見えないときでも、全力疾走する、サインミスをしない、きっちりとカバーリングをするといった野球の基本は、誰でも守れます。
他人のせいにしたり、自分でコントロールできないことにくよくよするのではなく、自分ができることを怠らずにきっちりとやることが大切ではないでしょうか。
たとえマイナス思考でも、不安や恐怖と隣り合わせでも大丈夫。むしろマイナス思考だからこそ、不安や恐怖を感じていたからこそ、私は野球に打ち込むことができました。
十九年間の現役生活を振り返ってみると、不安や恐怖を向き合いながら、基本的なことを飽きずにコツコツと積み重ねてきた結果が最終的な成績に繋がったのだと思います。
プロ野球解説者・宮本慎也
1970年、大阪府生まれ。PL学園から同志社大学、プリンスホテルを経て、95年、ヤクルトスワローズに入団。アテネ五輪、北京五輪では日本代表の主将を務める。2012年に2000本安打と400犠打を達成し、13年に現役を引退。
出典:PHP平成28年9月10日号