絶望的に見える状況でも、視点を変えてみることができたら、そこには希望がある
妊娠してから体調が崩れてしまったりすると、胎児に影響があるようです。そして、そんな不安を抱えながら出産をして、生まれた子供が元気に育つか心配ですね。
ここでは、未熟児として生まれたお子さんを育てらた長野市の主婦(50歳)の中村充枝さんの体験談をご紹介します。
これは、PHP賞受賞作品の、生きることについて考えさせるエッセイです。
「赤ちゃんが一番頑張っている」著書:中村充枝
母親というもの、わが子が無事生まれてきたときの喜びといったら何ものにも代えがたいものでしょう。
しかし、私の子育ては喜びではなく、生きる希望を失うことろから始まりました。
第一子を授かって安定期に入ったある夜、突然の出血。絶対安静を言い渡されました。
前日まで働いていたのに、突然、ベッドから起きられない入院生活が始まりました。私にとって初めての入院です。ベッドの脇に設置されたポータブルトイレで用を足す毎日。相部屋のため、思うようにいきむこともできません。先が見えない入院生活ほどつらいものはないと思い知りました。
二週間ほど後、深夜二時過ぎにお腹が痛み始めました。眠れぬ夜を過ごし、朝方、破水と同時に看護師さんを呼びました。
ことの重大さがわかったのは、医師が救急車を呼んだときでした。私を一刻も早く大きな病院に搬送するため、医師や看護師さんが必死に立ち働いてくれました。救急車に乗り込む直前、医師が私にこう言いました。
「産まれてくる子は眼が見えないかもしれません」
搬送先で医師や看護師さんによる懸命のケアを受ける間も、その言葉が脳裏から離れず、お腹の子と私は一体どうなってしまうのかと、不安でいっぱいでした。
毛むくじゃらの小さな背中
この日、私は妊娠七か月と二日目でした。なんとか無事に産まれた我が子の体重は、たったの千五グラム。いわゆる超未熟児です。両家の親と夫が、NICU(新生児集中治療室)に運ばれる息子とを私を、窓越しに見守っていてくれました。
一週間後、体調が回復して動けるようになると、看護師さんが私を息子のいるNICUに連れて行ってくれました。その道中、看護師さんにこう言われました。
「お母さん、赤ちゃんが小さくて、はじめはびっくりするかもしれません。中には、気が動転して立ち直れず、子育てできなくなるお母さんもいます。でも、一番がんばっているのは赤ちゃんですからね・・・」
私の気持ちを察して、そう励ましてくれたのです。
そして、いよいよ我が子と初めて対面。白衣に帽子とマスクを着け、手を腕から消毒。緊張しながらNICUに入室して、息子の名前が書かれた保育器を見つけました。
うつ伏せに寝ているその小さな背中は、まるで猿のように毛むくじゃらで、たくさんの管が付いていて・・・・。正直なところ、つらくて哀しく涙が止まりませんでした。この子は元気に育っていってくれるのだろうか。眼はだいじょうぶなのか・・・・。
その子をじっと見ていると、
「お母さん、手を入れてみますか?」
と促されました。私は保育器の二つの丸い穴からゆっくりと手を入れ、初めて我が子に触れることができました。
そこから一週間で私は退院して、張ってくるお乳を日に五回搾って、我が子のもとへ毎日運びました。でも、当初、息子が飲める量はたったの二ミリリットルでした。小さじの半分以下ーその量を、鼻から通した管から少しずつ注入していくのです。
一度きりの出会いが教えてくれた
半年後に息子がNICUから出ると、一つのベッドで息子とともに過ごす、母子入院の生活が始まりました。またしても先の見えない入院生活です。
高熱はほとんど毎日のこと。おむつを見ておしっこの量を確認し、制限量を守ってミルクをあげ、泣く我が子をあやし・・・。
そんな子育てに疲れていたある日、院内で同じく子供が入院している、一人のお母さんに出会いました。私の経験と不安を話したとき、そのお母さんは言いました。
「もし眼が見えなかったら、盲学校があるじゃない」
明るい口調に、私はハッと目が開かされる思いがしました。そうだ、眼が見えなくたって、絶望する必要なんてないんだ。
彼女自身のお子さんがどんな障害をもっているのかは聞けないまま、そのお母さんは去っていき、再び出会うことはありませんでした。
たった一度の出会いでしたが、私を力強く励ましてくれたその言葉は、今も頭の隅にあります。どんなにつらいときも、前向きに生きる支えとなっています。
それから二十年。長男は五体満足に育ち、去年、ハレて成人式を迎えました。私の心は誰よりも幸せと感謝でいっぱいになりました。
名前も聞かずじまいだったその人に、もしどこかでお会いすることができたなら、一言、心からお礼を言いたいと思います。
出典:PHP平成28年9月10日号
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