NHK「みんなのうた」で歌って大ヒットした「小さな木の実」の歌手・大庭照子さんの人生
NHKの「みんなのうた」で有名になった「小さな木の実」は、小学校の教科書にも載る有名な童謡になりましたね。
その歌を歌っていたのが、熊本出身の歌手・大庭照子さんです。大庭さんはこの歌がきっかけで有名になったようで、その後もいろいろな苦労をなさったようです。
ここでは、大庭照子さんの幼いころから今に至るまでの人生が語られているコラムをご紹介します。
どんな試練もプラスに変えていく。そしていつも明るく強く、真っ直ぐに生きていく。
「熊本にあんな大きな地震が来るなんて、思ってもいなかった。私は横浜にいたので難を逃れましたが、母が私のために西原村に立ててくれた家は全壊です。私がいたら即死だったとみんなに言われて、大げさだと思っていたけど、見にいったら本当にひどかった。家族もいない、家もなくなった。でもね、私は孤独ではない。ここからがスタートです」
力強いまっすぐな言葉と元気な笑顔。山あり谷ありの人生を、この人はいつもこうやって真っ直ぐ受け止め、乗り越えてきたのだ。
七十七歳にして、衰えるどころか、ますます艶のある声でファンを魅了する歌手・大庭照子さん。ここ数年、以前より楽に声が出るようになったというから驚かされる。舞台ではいつも十センチ近いハイヒールを履き、軽快にリズムを取りながら歌う。
シャンソンから童謡までレパートリーは広い。NHK「みんなのうた」で歌って大ヒットした「小さな木の実」から、今年で四十五年。今も大事に歌い続けている。
歌手として芽が出ない日々が続く
大庭さんは熊本市水前寺に、兄と姉ふたり、四人きょうだいの末っ子として生まれた。父は教師で穏やかで優しく、花は士族の娘でしっかりした厳しい人だった。
幼稚園の頃、忘れられないことがあった。
「キリスト教系の幼稚園だったから、クリスマスのお芝居をするとき、マリア様役に立候補したの。そうしたら先生が、『あなたにマリア様はちょっと…』って。とてもかわいい子が選ばれました。子ども心に、向き不向きというものがあるんだと思いましたよ」
世の中の不条理を見知った一件。近所の大人たちの井戸端会議に聞き入ったり、親せきが経営していた遊郭に遊びに行ったりして、早くから感性豊かな子供だったらしい。
小学生のときはおてんばぶりが有名だった。女の子をいじめる男子を「やっつけに行ってぶっ飛ばしていた」という。
子どもの頃から歌が大好きで、小学校四年生のとき、地元のNHK熊本放送局に児童合唱団ができたときも音楽の先生に勧められて一期生に応募、見事合格した。当時から彼女の「よか声」は有名だった。
九州女学院高校では合唱部、そして横浜のフェリス女学院短期大学歌楽科に入学した。「合格したのがうれしくて飛んで帰ってしまい、フェリスの寄宿舎に入る申し込みを忘れてしまったんです。入学してから入れませんと言われて、舎監の先生に『廊下でもよかです!』と熊本弁で懇願したのを覚えています」
フェリスでは「先生たちに恵まれました」と懐かしそうに言う。女声では珍しいコントラスト(アルト)だと教えられ、クラシックを目指す。卒業後は、オペラ団体の二期会研究科に合格。ところがなぜかクラシックが合わない。声帯ポリープを患い、ついには声帯出血。ポピュラーへと転向する。
一九六八年、二十九歳のときに日本シャンソンコンクールで準優勝。それをきっかけにシャンソン界の草分けである石井好子さんの事務所に所属。三十歳で「倖せのテーマ」という曲でレコードデビューも果たした。翌年にはイタリアのカンツォーネラフェスティバルなどに出演するも、なかなか歌手として芽が出ない。
「誰も聞いてくれないクラブやレストラン、はたまた全国のキャバレーなどを回っていました」
三十二歳になるまで親から仕送りしてもらっていたと、大庭さんは照れたように言う。苦労続きの歌手活動だったが、両親は彼女が歌で一人前になると信じていた。
七一年、大庭さんは独立し、たったひとりで大庭照子音楽事務所を開く。生きていくためには歌うしかない。必死に売り込みもした。そしてNHK「みんなのうた」のディレクターと知り合い、あの名曲「小さな木の実」を歌うことになるのだ。歌はたちまち大ヒット、大庭さんも注目を浴びた。それをきっかけにスクールコンサートの仕事が舞い込み、彼女は童謡のすばらしさに目覚めていく。
日本青年会議所主催の「青年の船」での音楽講師の仕事は十年続き、以前所属していた石井事務所から引き継ぐ形で、シャンソンの祭典「パリ祭」も主催するようになった。
「最初は『小さな木の実』も生活のための歌としか思っていなかった。でもあれから四十五年、大事に歌い続けていくうちに、曲と歌詞のすばらしさがわかってきた」
バブルが恥はじけたころに暗雲が
やがて大庭音楽事務所は、自身の歌手活動だけでなく、プロモーションやプロデュースの仕事も本格的に始める。外国からの歌手の招聘、コンサートの企画・主催など、当時は大手の音楽事務所として業界では有名だった。年商五億円という時期もあったという。
童謡をもっと多くの子どもたちに届けたい、大人にももう一度歌ってもらいたい。その思いが高じて、故郷である熊本に童謡記念館をつくろうと考えた。阿蘇の素晴らしい景色の中に場所も見つけた。支援者もいる。
だが、バブルがはじけた頃から彼女の人生に暗雲が垂れ込めてくる。
九三年、彼女が立派な歌手になると信じていた母が自ら命を絶った。
「母は私が歌手として活動していくことを望んでいました。でも私は、自分の歌がどこか不安定で自信がない。しかも、人の世話を焼いたり、人と人を繋げたりするのが大好きな性分。それは母譲りでもあるんですけどね。そんな私を見ていて、母はふがいなかったんでしょう。いつも『人の世話ばかり焼いてないで、もっとちゃんと歌の道を行きなさい』と言っていた」
それが自殺の原因ではないだろうが、士族の娘である母は、「死んでみせんとわからん」と言っていたらしい。
長姉と兄は自らの生を絶った母に対して「みっともない」と怒り、次姉は「あんたのせいだ」と大庭さんを責めた。
体調を崩して入院していた母は、大部屋から個室に移り、処方された睡眠薬を密かにためていた。そして身辺整理をきちんとすませ、八十六歳の誕生日の三日後に亡くなった。
「新しい下着を身につけて、脚もきちんと縛っていた。念のためだったのでしょうか、青いビニール袋二十重ねて頭からかぶり、首のところでしっかり結んでいたそうです。あまりに見事な死に方でした。童謡館の設立が決まり、喜んでくれていると思っていたのですが、やはり母は私に歌うこと以外はしてほしくなかったのかもしれません」
人は口さがないものだから、こういうことがあると地元では噂が噂を呼ぶ。母は常に「子どもの世話にはならない」と言っていたから、この事件も、大庭さんにとっては「母らしい」と思えるものだった。だが、周りには大きな衝撃を与えた。大庭さんは、その年の暮れ、喪中を知らせる手紙を知人たちに送った。その一説にこんな文章がある。
「母の自殺は、姉、兄には関係なくすべて私に対していろんなことを訴えるため、母なりに一生懸命に考えての行動であったと思っています。母はこのような形で一生、私が母とともに生きていくのを願ったのだと思うのです」
母と娘との葛藤がどれほどのものであったのか想像に難くない。お互いに深い愛情を持ちながら、それでも最後まで理解しあうことができなかった。いや、もしかしたら愛情が深すぎたがための葛藤なのかもしれない。
子どもたちに童謡を教えたい、童謡を歌う後進を育てたい。そんな思いがあったものの、母を救えなかった自分が、命の大切さを伝えられるのだろうかと」大庭さんは悩み続けた。
熊本のよさをもっと広めたい
母の死の翌年、熊本県久木野村に四億円をかけて日本国際童謡館がオープン。ファミリーで楽しめる場所として話題となり、幸先はよかった。しかし、二年が経過するころから不穏な空気が漂っていく。そして為す術もないまま競売物件となってしまったのだ。
さらにことはどんどん大きくなり、破産申し立てを受けて、ついには裁判になる。一年三か月争ったあと、大庭さんは破産した。まさに天国から地獄へ突き落されたようなものだった。
「破産はしたけど、個人でお金を貸してくださった方たちには、何としても返さないと気が済まない。お金に追いまくられるっていうのは大変ですよ。月に二百五十万円も払わなければいけないときがあって、どうやって金策したのかも覚えてないくらい。ただただ、毎日が夢中で過ぎていきました」
大庭さんとともに仕事をして三十年たつ高田真理さん(日本国際童謡館理事長)は、「大庭さんから愚痴を聞いたことはありません。愚痴を言う暇もないほど必死の毎日でした」と話す。
そして大庭さんは高田さんとふたりきりで、高田さんの実家がある横浜へと拠点を移す。マイナスからのスタートだった。地元では「バカだね」「歌だけやっていればよかったのに」と悪口も言われた。
弱り目に祟り目とでもいうのだろうか、そのころ大庭さんが乳がんを宣告される。
「手術するお金も時間もない。そのとき、ある『食事道』に出会って徹底的に食生活を改善しました。その後、胸から出血があって、あわてて病院に行ったら、がんがものすごく小さくなっていると。誰もがそうやって治るわけではないし、がんにもいろいろあるのでしょうけど、私の場合はよほど免疫力が高かったんでしょうか。五年かかりましたが、がんが出て行ってくれたんです」
破産に乳がん、それでも彼女はめげなかった。歌の仕事を依頼してくれる救いの神もたくさんいた。自分の洋服などはまったく買わず、歌を歌い、横浜に作ったNPO法人日本国際童謡館を軸に後進を育ててきた。
「今日のアクセサリーもお友達のお古なのよ。服はバブルの頃のもの」
屈託なく笑う彼女に、神様は微笑んでくれた。支援してくれた人たちへの返済のめどもたち、今年初めには再度、大庭音楽事務所を立ち上げた。都内の老舗シャンソニエにも定期的に出演してシャンソンを歌い、コンサートで全国を飛び回る。
「七十歳以上の人は無料という『花ざかりコンサート』もやっています。私、これからは七十代、八十代が若い人たちに生きざまを見せていかなければいけないと思っているの」
そんな矢先の地震である。またも試練に見舞われていると思いきや・・・・。彼女は率先してチャリティーコンサートを開き、熊本の文化人を東京に招き共演することで、熊本のよさを広めようと奮闘している。
「家が住めなくなったことで、逆に私はすべてから解放されたような気がしているんです。母からも、私を縛っていた『家』からも。またもやゼロからのスタートですが、二年後には『赤い鳥百年』を迎えます。童謡をさらに広めていきたいと考えています」
大庭さんは、どんな試練もプラスに変えていく。そしていつも明るく強く、真っ直ぐに生きている。
出典:PHP平成28年8月10日号