人生は、辛くて苦しいことがたくさんあるけれど、生きてさえいれば小さな幸せもある
戦時中、7歳のときに不慮の事故で左手の感覚を失った歌手の島倉千代子さん。そして母が歌ってくれた歌がきっかえとなり、歌が大好きだと気がつき、十六歳のときには歌手デビューをします。
そして、後には国民の誰もが島倉さんの歌を知るほど有名な歌手になられました。
今はもうお亡くなりになった島倉さんですが、戦争中の疎開のお話から、ご自身が左腕の感覚をなくされた事故の話など、自身の体験談やそのときに感じていたことを綴ったコラムが目に留まりましたので、ここでご紹介します。
今この瞬間を生きている幸せを大切にしたい。そんなふうに思いながら暮らす
昭和二十年の終戦の年。私たち家族は、長野県の芳川村という所に疎開していました。私が七歳のときです。質素な家と食事。家族が肩を寄せ合うことでしか生きていけなかった。七歳の女の子とはいっても、家族にとっては立派な労働力です。みんなの力で生活を支えていた時代でした。
水を井戸から汲み上げて家まで運ぶ。それが私の仕事。手押し車に大きなガラス瓶をのせ、姉と二人で精いっぱいの力で車を押す。当たり前の子供たちの日常です。
今この瞬間を生きていることが幸せ
そして、私の運命を左右する日がやってきました。砂利道に足を取られて転んで、手押し車を倒してガラス瓶を落としてしまったのです。ガラスが粉々に割れて、そこへ倒れこんでしまいました。
ふと見ると、左手の付け根あたりが血に染まっていました。薄れていく意識のなかで、私はもう死ぬのかなと考えていました。
傷は相当な深さでした。四軒もの医者を訪れたのですが、誰もが匙を投げたそうです。父が最後の望みと訪れたのが、戦争から帰ってきたばかりの軍医さんでした。「治療はしてみるが、命の保証はできない。いずれにしても手は切断するしかない」。そんな軍医さんの言葉に、母は泣いて頼んだそうです。「この子は女の子です。動かなくてもいいから、手の切断だけはしないでください」と。
血管と神経がズタズタに切れていた。四十七針を縫う大手術でしたが、奇跡的に命をとりとめました。どれくらい眠っていたんだろう。うっすらと目を開けると、たくさんの目玉が見えました。お父さん、お母さん、お姉さん、そして村の人たちがしきりに声をかけている。「千代子。千代ちゃん。生きててよかった」。その声とたくさんの目玉が、私の原点になっているんです。
この日以来、私の左手には感覚がなく、ほとんど動きません。そのために、辛い思いも随分としました。
でもそんなときには、あの目玉を思いだすのです。私は生きているんだ。あのときの辛さに比べれば、大したことはない。この程度で済んでよかった。今この瞬間を生きている幸せを大切にしたい。そんなふうに思いながら暮らしています。七歳のときに見た「幸せの目玉」が、私の人生を支えてくれているのです。
歌えること、それが夢だった
母とふたりで、よく貰い湯に行きました。湯船に浸かりながら、母はいつも「リンゴの歌」を歌ってくれました。この歌が、私の歌との出会いでした。
歌うことが大好きでした。のど自慢があると聞けば出掛けて行った。この日だけは学校を早引きすることを、母は許してくれました。きれいな着物を着て、大好きな歌が歌える。それだけが、左手が動かない女の子の幸福な時間でした。その代わり、歌の為に勉強を疎かにしないこと。それが母との約束でした。
「あのとき、自分が水を汲みに行けばよかった。片手が動かないこの子に何をしてやれるのか。しっかりとした常識を身につけさせ、歌という楽しみをもたせてやりたい」。おそらく母はそう思っていたでしょう。そのために、特に歌手になってからはとても厳しくされました。礼儀作法から言葉遣いに至るまで、こと細かに注意される。
私はそんな母に反抗したものです。十六歳という若さでデビューしましたから、コンサートにはいつも母が付いてきてくれました。人付き合いが苦手な私をフォローし、動かない左手を庇うためです。
小さい頃から、私は笑わない子供でした。家族ともあまり喋らず、心を閉ざしていたのです。「千代子がいちばん分からない」とよく言われたのを覚えています。ごくごく普通の娘に育って欲しい。平凡な幸せのなかで生きていって欲しい。そんな母の願いを感じていたから、そうなれない自分がもどかしくて反抗的になっていたのでしょう。
私は歌手になることが夢ではありませんでした。私の小さな頃からの夢は、美空ひばりさんと同じステージに立つこと。そして大好きな歌を歌えることだけでした。のど自慢に出掛けて行くときのような、あの幸せな気分さえあればいい。母から見るといつまでも少女のような私だから、母は心配でたまらなかったのだと思います。
母の厳しさに感謝するようになったのは、私が六十歳を過ぎてからです。それこそ、第五反抗期くらいまであったのかもしれませんね。
今もときどき、無性に亡き母に会いたくなります。会いたくて会いたくて。だから自分の部屋には、大きな母の写真を飾ってあります。家に帰ると、「お母さん、ただいま。今日のお仕事はこんなだったよ」と報告しています。するとどこからか、「リンゴの歌」が聞こえてくるような気がするのです。
辛くても、笑って生きていきたい
人生には、辛くて苦しいことがたくさんあります。私も、仕事がうまくいかなくて死のうと思ったことさえある。自分の力のなさに行き詰まり、無意識のうちに街のなかを彷徨っていたこともありました。でも、生きてさえいれば、小さな幸せもまたあるものです。
過労とカゼが重なり、声が出なくなったことがあります。コンサートの最中に、高い音が全く出てこない。ステージの上で呆然と佇むことしかできない。すると、観客席からたくさんの歌声が聞こえてきた。私が歌えないところを、お客さんがみんなで歌ってくれたのです。人の心の温かさに触れて、私は胸がいっぱいになりました。それは、小さい頃に見た、「幸せの目玉」と同じ光景でした。
十年ほど前に、私はガンの手術を受けました。それはとても苦しい経験でした。でも不思議なことに、手術が終わったときから、左手に感覚が少し戻ってきたのです。六十年近くも忘れていた感覚が蘇ってきた。きっと、辛いことに耐えたご褒美なのでしょう。もっと動くようになったら、自分の手で包丁を握って料理を作ってみたい。それが今の私の夢です。
自分の人生が幸せだったかと聞かれたら、「幸せなこともあった」と答えるでしょう。母が望んだような人生ではなかったかもしれない。お嫁にも行きましたけど、すぐに帰ってきました。莫大は借金を抱えたこともあります。ごく普通の娘さんではなかったかもしれない。でも、これが私の人生なのです。
辛くて苦しくて、涙を抑えながら舞台に立ったことも幾度となくありました。そういうときに限って「今日の舞台は素晴らしかったね」と言われる。もしかしたら人の心は、幸せよりも、苦しさ、悲しさの方が伝わりやすいのかもしれません。それはきっと、人生には辛いことのほうが多いからだと思います。
辛さに涙しながら、それでも笑って生きていきたい。大切な命なのですから。
歌手の島倉千代子さん
1938年、東京生まれ。55年、歌手デビュー。以降、「からたち日記」「ほんきかしら」「人生いろいろ」などの多数の大ヒット曲を出す。離婚や肩代わりの借金、乳がんの手術などの出来事を乗り越える。2013年、逝去。
出典:PHP平成28年9月17日号
島倉千代子さんによる、「辛く苦しいときでも、笑って生きること」まとめ
私は、小さい頃から島倉千代子さんをテレビで見たことはありましたが、左腕に感覚がないことは知りませんでした。成功している人は、何不自由なく見えても、苦労をされて生きている方は多いのですね。
誰の人生にも、辛いことや苦しいことはあるけれど、そんな中にも生きていれば幸せはある。
苦労があるから、幸せも感じることができるのでしょう。そして辛いときこそ、人の優しさを感じることができるのかもしれませんね。