有名人のコラム

第10回『世界標準で生きられますか』第七章:「官」と「民」の関係を見直せ

有名人のコラム
スポンサーリンク

『世界標準で生きられますか』第七章:「官」と「民」の関係を見直せ

今回は第10回目になる、竹中平蔵さんと阿川尚之さんにより1999年に書かれた『世界標準で生きられますか?』という本を読んでいきます。

今回の10回目は、『第七章:「官」と「民」の関係を見直せ』です。

♦第1回:第一章①「国際舞台で言葉を持たない日本人」

♦第2回:第一章②「国際舞台で言葉を持たない日本人」

♦第3回:第二章は「日本人はなぜ尊敬されなくなったか」

♦第4回:第三章①「日本を繁栄させたシステムがいま機能しなくなった」

♦第5回:第三章②「日本を繁栄させたシステムがいま機能しなくなった」

♦第6回:第四章①「法の機能不全が日本をだめにする」

♦第7回:第四章②「法の機能不全が日本をだめにする」

♦第8回:第五章:官僚制度の呪縛をどう解き放つか

♦第9回:第六章:日本にいま必要なのは「やめる」戦略

スポンサーリンク

第七章:「官」と「民」の関係を見直せ

「第三の道」論はアンチ・アメリカニズム― 阿川

いま資本主義そのものへの疑念ということが言われています。ヨーロッパでは、「第三の道」論が言われている。これは政府もマーケットも規制緩和一辺倒のアメリカ型のグローバリズムではなくて、政府は規制緩和するが、マーケットは一部規制してコントロールしていこうという考え方で、それ自体は至極当然だと思います。ただ私には「第三の道」は、アンチ・アメリカニズムの面が多分にあるように思えてなりません。私の印象では、経済のアメリカ化によって文化的にもアメリカそっくりそのままになってしまうのは嫌だという人たちが、感情的に反発しているように見えるのです。「第三の道」論の中心は、イギリスですが、この議論に呼応するようなうごきが日本国内でも出てきています。これは西部邁さんなどが典型的ですが、なぜアメリカはだめでイギリスがいいのかというのか、私には全然わかりません。

もう一つこの問題に関して言うと、竹中先生はどうお考えになるのかわかりませんが、ヨーロッパ、特にイギリスに行ってみて思うのは、アメリカニズムの問題が、日本異常にイギリスで起こっているということです。

ロンドンの街を歩いてみると、場所によっては意外なほど白人が少ない。ニューヨークと全然変わりなくなっています。情報化の問題だとか、エスニシティの問題だとか、国境を越えた人の移動とか、そういうアメリカで問題になっていることは、むしろヨーロッパで切実なものになっている。イギリスは伝統社会で、イギリスなら伝統のしっかりした価値があるだろうというのは、多分に日本人の思い込みなのではないかと思います。

逆に言えば、アメリカという国にはヨーロッパ的なもの、アジア的なもの、中近東的なものが混在している。そういう文化的なものが混在していて何とか一緒にやっていくという実験を歴史的にいちばん長くやっているのはアメリカです。皮肉っぽい言い方をすれば、「第三の道」というものがもしありうるとすれば、それはアメリカでこそ可能なのではないかとも言えるわけです。

パターンド・プルーラリズムに陥らない「第三の道」は簡単ではないー竹中

経済や社会の仕組みということについては、基本的にはいろいろな道があると思います。ただ、これはハーバード大学のダニエル・ベルと話したときに彼が言ったことですが、「社会学者として見ると、この地球上でかつて本当の資本主義も本当の社会主義もどちらもなかった」ということです。これはそのとおりですね。かつてのソ連においても、また中国でも、若干の私有とインセンティブを認める道はあったし、いまのアメリカですら連邦政府がかなりのことをやっている。アメリカにはアムトラックのような国営企業とすら言えるようなものがあるわけで、本当の意味での純資本主義ではない。資本主義というのはやはり一つの理念系であって、実際の社会はその中間にあるわけです。

ただ、その中間的なものというのを、むしろ非常に問いづらくなっているというのが、先ほど申し上げたパターンド・プルーラリズムの話だと思うんです。その意味では、本当にサステイナブルな制度かどうかということを考えると、第三の道といわれるような折衷的なものというのは、それほど簡単な話ではないのです。

日本的必ずしも日本的ならずー竹中

いまの話に関連して思うのは、一部の人が日本的だと言うものは、厳密な意味で言うとまったく日本的ではない。例えば、終身雇用とか人間の信頼性とか高貯蓄とか言われますが、これらはすべて極めて新しい現実です。終身雇用が本格化したのは戦後ですし、高貯蓄とか勤勉性とか言いますが、これについては南亮進さんの有名な研究がありますが、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間で各国の貯蓄率を見てみると、日本はアメリカに比べてはるかに低い。ですから、日本は文化の影響で貯蓄率が高いとか、そんなことは言えません。

もう一つ例を挙げれば、株式の持ち合いにしても、本格化したのは一九七〇年代からです。

また、雇用についても、大恐慌のときのGMなどのほうが、いまの日本よりはるかに雇用者を守っていました。一時期までのIBMもそうですし、ヒューレット・パッカーもそうです。

そういうふうにみると、私たちが日本の文化だと言ったり思ってきたことが、ごく短期的に成立していた例外的なことだというこことがよくわかります。

むしろ私は、日本というのはかなりの自助努力社会だったというふうに思います。例えば、江戸時代の道路の修理は、ほとんどが自費普請でした。幕府に頼っていたわけではないのです。

日本はライフラインの中心である水に関してさえも、ついこのあいだまでは自助努力していました。みんなそれぞれが井戸を掘っていた。井戸を掘っても水が出なかったときは、自分の責任においてどこかと交渉して水をもらっていた。私たちが子どもの頃には、まだ井戸があったのです。そういう意味では、日本というのはかなり自助努力的な社会であって、こんなに他人依存で情けなくなったのは、本当にここ十数年のことではないか。日本人ってこんなにだらしなくて情けない民族ではなかったのではないかと、私は思います。

アメリカでは「公」の部分を「民」がかなりやっているー阿川

竹中さんとときどき話し合っているのは、日本人は「官と民」「公と私」ということについて、二項対立的に考えすぎていないかということです。

日本では「公」、すなわち「官」だと思われていますが、それは間違いではないか。アメリカの社会は健全ではないところもたくさんありますが、私がいつも思うのは、今言われた「井戸の自助努力」のようなところがたくさんある社会です。「公」のところをかなりの程度「民」がやっている。連邦政府やクリントン政権だけ見ていては、よくわからい部分がそういうところなのです。

日本はすべてを「官」がやるようになっていて、「官」でないと何もできなくなってしまっている。そこのところをどうやってなるべく「民」でやるかというのがこれからの課題です。これは制度の問題でもあるのですが、とりわけ税金の納め方、使い方にかかわるところが大きいのではないかと思います。

アメリカで生活してみると、子供の学校のことで、何かと呼び出される。今日は「大工の日」だからノコギリや金槌を持って仕事をしに来てくれ、お金を出せないなら体を出せみたいな感じです。アメリカでは、なんでこんなに学校へ行って働かなければいけないのかと思ったことがあります。これは子どもが通う学校のことは親自ら汗を流してやるという精神の表れではないか。

ひるがえって日本の一九四〇年から続く官僚体制ということを考えると、国民は税金を払うだけで公的な仕事はすべて官に任せてしまったと言えるのではないでしょうか。公的な仕事に一般国民が直接参加する機会が日本では少なくなってしまった。

これに対して、アメリカではまず税金の申告を自分で全部やらなければいけないし、少し前までは徴兵制もありました。

日本は徴兵制をなくしてしまって、税金はサラリーマンはほとんど全部源泉徴収になっている。徳にいけないのが大幅な源泉徴収の制度ではないかと私は思います。

年末調整ぐらいは自分でやるべき―竹中

私は、源泉徴収はやってもいいと思いますが、年末調整はやらない方がいい。これは自分で申告して調整すべきです。

ボランティアだけでは「公」への参加は不十分― 阿川

税金の申告を自分でやらないと、納税意識もできませんし、税金の使い道をチェックしようという感じになりません。

もう少し言うと、日本には陪審制度がない。自分たちの仲間を死刑にするというのは、最も大きな公的権力の行使です。次に、選挙です。アメリカですと大統領選挙のように大きいものでも、予備選挙の段階ではごく普通のおじさんおばさんたちが手弁当でやっています。それが日本の場合にはプロの話になってしまっている。

私がこのごろ思うのは、日本人に「公」に参加する意識をもっと持ってもらおうとするのなら、ボランティアだけではダメなのではないかということです。もう少し強制的に民を使うような義務づけみたいなこと、例えば大学へ行くのでも、イスラエルのようにある種の徴兵制みたいなものを条件にして、どうしても兵隊に行くのは嫌だという人には、人のいやがる仕事をさせるなどのシステムが必要なのではないかと思います。

さらに思い付きで言えば、カンボジアなどへPKOで行った人には相続税をただにするとか、個人が担うパブリックなサービスと税とをリンクさせるなど、アイデア一つでずいぶん違ってくるといつも思っているのです。

介護の問題をお金で解決したのは湾岸戦争をお金で解決したのと同じー竹中

老人介護について、それがあったらいいという意見は一時ありました。自分が介護を受けたいなら、若いころに誰かの介護をしておけというやり方です。介護サービスをした人だけが介護を受ける有資格者になれるわけですから、公的な役割への強力なインセンティブになります。しかし残念ながら結局は保険料でやるということになってしまいました。お金を使って介護の問題を解決するという方法を選択したわけです。それは湾岸戦争のときにお金だけ払って国際的なパブリック・サービスを逃れたという所にも通じているような気がします。

陪審員制度や徴兵制があってはじめて「公」を真剣に考える―阿川

もともと英語の「サービス」という言葉には徴兵に応じる、兵士として国に尽くすという意味もある。それは市民社会が成り立つためには、市民が自分たちで守らなければならなかったという歴史的な経緯からきています。

逆に言うと、兵隊には行きたくない、嫌だという気持ちがあって初めて、「公」ということを本当に考えるのだと思います。ところがそのきっかけになる徴兵制がないわけですから、今の日本人には「公」ということを考える機会がありません。

陪審員制度にしても、アメリカ人だってみんなやりたくないわけです。けれども、無理やり陪審員にさせられる。それでもいやいやながら裁判所に通って、陪審員を務めることで、人を罰するという公権力の行使がどういうものかを知ることになる。

いろいろな帽子をかぶってみたらいい―阿川

私がソニーにいた時代に、半導体問題をめぐる日米間の会議に盛田昭夫さんのカバン持ちで行ったことがあります。その会議にはガルビンというモトローラの社長も出席していました。この会議の最後に彼が発言して「いろいろな意見はあるだろうが、日本人に一つ欠けていることは、「Sometimes you have to wear two hats」だと言った。どういうことかというと、みんな会社の帽子だけかぶるのはやめろ、いろいろな帽子をかぶってものを考えていろという意味です。そう言いながら、私たち日本の代表団一人一人に帽子を配った。確かに日本人の多くは異なる帽子を時に応じてかぶり分けるということをしません。これはプルーラリズムにも通ずる話ですが、みんな一つの帽子しかかぶっていないから、いろいろなこと、特にパブリックな仕事がなかなかできない。

パブリックなことを官僚が独占しすぎてしまったー竹中

ある人が言っていましたが、日本人はまず企業に所属する。そして企業は必ずどこかの業界に所属する。その業界はどこかの官庁の指導下にある。日本人は、そういう縦の流れに帰属する。

これはアメリカよりもドイツがそうだと思いますが、ドイツはまずファミリーに所属して、ファミリーはコミュニティに所属します。日本人には、コミュニティという概念は企業にしかなくなってしまっている。

さきほど公的はものと阿川さんがおっしゃいましたが、一つは、そういった意味でのパブリックなことを官僚が独占しすぎているんでしょう。「よらしむべし、知らしむべからず」で、国民に知らしめるべきではないということです。官僚の任務は、国民にできるだけ情報を与えないようにしていて、業務を独占するということであって、自分の影響力を最大化することが完了立ちの目的関数だと私は思います。そこが日本の一つのネックです。それに加えて企業の雇用形態が結びついていて、いまのようなかたちになっているのでしょう。

さまざまなレベルの人が政策過程に関与したほうがいいー阿川

だれでも官僚のように公的な仕事をやってみたいと思っているのでしょうが、現在の制度ではなかなかできません。竹中さんのように戦略会議に入れる人はまれですし、いろいろなレベルで普通の人が政策過程には入れたらいいのでしょうが、それは時間的制度的に許されない。

社会には「守る仕組み」と「壊す仕組み」が必要ー竹中

経済戦略会議でも、委員の人選に官僚がかなり影響力を持っていたという面がありますから、本物のプルーラリズムにはなっていません。審議会になると、もっとはっきりして、官僚がやりたいことを推進してくれる人を選びます。

一つ大事なことは、いい意味で壊す仕組みが要るということです。守る仕組みを怖る仕組みが社会には必要だと思います。日本の場合、結果的に一つ言えることは、必ず当事者が意思決定に参加しているということです。これはまな板の上の鯉が包丁を持っている構図なんです。被告が裁判官を兼ねているのと同じです。

典型的な例を挙げれば、スーパーマーケットなど大型店進出の是非を決定するのは、大規模小売店舗法による商業活動調整協議会だったことです。要するに百貨店を進出させるのがいいかどうかという判断を、地元の小売店の人に決めさせたのですから、そんなものが進むはずがありません。

外部の人間が意思決定に参加することが重要―阿川

そうですね、アメリカ的な言葉で言えば、それはコンフリクト(利益相反)という考え方です。当事者は自分の利害がからむことがらについて意思決定に参加してはいけないという原則です。何か不祥事が起こると、当社は深く反省し、自浄のため営々と努力しているなんて言いますけれど、当事者自身でできることには限界があります。そこを道徳だとか精神的なもので華夏づけるというのは無理があって、外部の人が意思決定に参加するということがなければいけない。

守る仕組みのある組織は悪くなると徹底的に悪くなるー竹中

会社組織でも、これまで日本の場合はボードの中に外部の監査役が入っていませんし、監査役というのが独立していない。

守る仕組みがある組織というのは、うまくいっているときはものすごくうまくいくんですが、悪くなると徹底的に悪くなります。日本を見ているとそのことがよくわかります。結局、建設的に壊す仕組みをどういうふうに作っていくか、そこに尽きるのではないでしょうか。

(続く・・・・)

タイトルとURLをコピーしました