有名人のコラム

第2回『世界標準で生きられますか』第一章② 著者:竹中平蔵・阿川尚之

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新しい政策を批評する前に、その政策の発案者の思考を理解してみる努力をしてみよう、と思う

前回に引き続き、竹中平蔵さんと阿川尚之さんにより1999年に書かれた『世界標準で生きられますか?』という本についてです。

今後、この国でベーシックインカムがますます議論されることになるなら、その分野の第一人者そしてTVなどのメディアが取り上げている竹中平蔵さんの思考を知ることは、国民にとって大切であると思います。ここでは引き続き、竹中さんの本を読んでいこうと思います。

今回は2回目で、『世界標準で生きられますか?』の『第一章②』です。

前回の第一章①はこちらになります。

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『世界標準で生きられますか』第一章②

最初にダボス会議の重要性を言い、実際に活動していたのは盛田昭夫だったー阿川

実はダボス会議については、私は一五年ぐらい前から知っていました。以前、私はソニーにいましたが、会長の盛田昭夫さんは、「ダボスだよ、君、おれは行くんだ」とみんなに言っていた。おそらく日本人で最初にダボス会議に出席して、IRのことを考えたのは盛田さんでしょう。当時の私には、ダボス会議の意味はよくわかりませんでした。その意義についてわかってきたのは最近のことです。

ダボス会議には北朝鮮もときどき来ているらしい。北朝鮮でさえ行っているのです。去年は、中国の朱鎔基が、ダボス会議で人民元を切り下げないと言って、非常にいいIRをやった。そのときには日本から出席した人がいなくてさんざんだったので、今年は加藤紘一さんと外務政務次官の町村信孝さんが行って発信したようですが、日本はああいう国際的な場であまり存在感を示していませんね。日本のいまの問題を象徴しているようなところがあります。

スイスのソフトパワーを強烈に感じた ー 竹中

ダボス会議に出て、もう一つ思ったことは、スイスという国はやっぱりおもしろい国だということです。まさにスイスのソフトパワーを実感しました。ソフトパワーというのは、結局のところ、相手に直接働きかける軍事力でも経済力でもないわけですが、あれだけの人間を集めて、あれだけの存在感を示しているわけです。

スイスは言葉も非常に複雑な国で、ダボスは基本的にはロマンチェを話す地域なんだそうです。スイスはご承知のように四か国語が話されています。ドイツ語、フランス語、イタリア語、それからロマンチェというのがある。ところが、タクシードライバーから始まって、みんな英語がものすごくうまくて、そういう意味では完全に国際モードになっています。

私は、阿川さんにもお手伝いいただいているいくつかの研究所で活動していますが、日本でもダボス会議のような、あれだけの人を集められる会議をいつかやりたいですね。

衰退した英国が影響力を保てるのは、英語が一番うまいから ー 阿川

英語の本家はもちろんイギリスですが、国土も狭いし、日本ほど国富があるわけでもないし、衰退国である。にもかかわらずあれだけの影響力がもてるのは、結局あの国の人たちが英語をいちばん上手に操るからでしょう。まったく当たり前の話なんですが、日本がこんなに力があって、こんなに人口があって、GNPがあるのに、なぜこんなに苦労しなければならないのかというと、最終的には英語の問題になってくる。

英語をデファクト・スタンダードにした英国 - 竹中

この前ある人が、イギリスという国が世界に与えた最大の影響力は何かというと、英語を国際語として広めたことだと言っていました。私もまったくそのとおりだと思います。グローバライゼーションが進展していくなかで、共通語の存在が大変重要になっているわけです。これは後の議論に関係しますけれども、相互依存が高まって、ネットワーク世界になっていけばいくほど、そのネットワークに乗っかる言語というのはやはり英語になっていく。これは避けられない。本当に英語には苦労させられますが、これからも絶対付き合っていかなければいけないわけです。

ネットワーク社会の代表例が国際金融市場ですが、国際金融市場というのは、基本的にはすべて英語です。英語の支配力の強いロンドン、ニューヨーク、シンガポール、香港は国際金融市場になりました。英語が話せないと国際金融市場にはなれないというこということですから、二〇世紀の終盤になって、英語の力というのは圧倒的に高まってしまった。これがさきほど言ったソフトパワーの一つです。英語言うソフトパワーの時代になっているということです。

日本で英語が一番うまかったのは明治の人たちだった - 阿川

日本人が英語ができない理由はすごく簡単なことで、日本ではこれまで英語が必要でななかったからです。明治の初期を除けば、ずっと英語なしでやれてきた。ですから逆に少し古いことを調べていてつくづく思うのは、日本の歴史のなかで英語が一番うまかったのは明治初期にアメリカへ渡った日本人たちです。新渡戸稲造とか内村鑑三とか、アメリカに行く前から英語だけで教育を受けていて、シェークスピア、ベーコン、ミルトンなどを読んでいる。

そういう教育をしていた時代が終わり、留学した日本人が帰ってきて、英語を教えだした途端にだめになった。それから一〇〇年、これだけ英語が必要になったのは、明治初期以来初めてでしょう。

大国になったメリット要件が逆にデメリットになっている ― 竹中

先ほどのソフトパワーの話の続きですが、ソフトパワーの国というのは、イギリスであれ、スイスであれ、シンガポールであれ、基本的に共通しているのは小さな国だということです。大きな力がないゆえに、何か文化的なものを含めて影響力を持たなければいけないという宿命を背負わされるのです。

当たり前の話ですが、国内マーケットが大きい国は、そんな影響力に頼る必要はありません。では、世界の先進国で国内マーケットの大きな国を二つ挙げろと言われれば、これアメリカと日本です。先進国のなかで、人口一億人以上の国は、この日米の二つしかありません。別の言い方をすると、GDPに占める輸出入の比率は、日本とアメリカが圧倒的に低いのです。日米ともに10パーセント程度ですが、そんなに割合の低い国はほかにありません。ヨーロッパのほとんどの国が三〇パーセント以上ですし、香港などはほぼ一〇〇パーセントと言っていい。まさに阿川さんが言われたとおり、その必要性がなかったということです。

国内マーケットが大きいということを経済で言うと、規模の経済性を発揮させることができるということです。それで大規模な産業経済が成立したのですが、今はそのメリットが逆にデメリットになっている。

日本のあるトップ・バンクの頭取がおもしろいことを言っています。「うちの銀行に欠けているものが二つある。一つは自己資本で、もう一つは英語力」だそうです(笑)。

どこまで本気かはわかりませんが、行内の会議をすべて英語でやろうと考えているとも言っていました。本当に最先端の金融をやろうと思ったら、そういうことをまじめに考える必要が出てきますね。

教養抜きの英語では国際的な知的サークルには入れない - 阿川

トップ・バンクでさえそんなことを言っているんですか。

よく外国人を社内に入れたりして、どうしても話さざるをえない状況をつくれば、あっという間に話せるようになるのではないかという人がいますが、実は問題はそれほど簡単ではありません。英語をただじゃべれるというのは世界中にたくさんいますが、あるレベルで話すということがかなり重要です。アメリカやイギリスの政府の中枢にいて国を動かしている人たちというのは、英文学や、あるいは英国史とかローマ史などを勉強した人たちです。そういうリテラシーがないと中枢の地位にはつけない。

というのは一つには、そもそも、英語で書く能力、あるいは使う能力が優れていないと、ある種のフォーラムには入れないということがあります。アジアでも、シンガポールのことはよくわかりませんが、インドや香港などでは、国を動かしている一番上のレベルの人はそれができます。

もう一つは、話したり書いたりする内容のバックグラウンドとして一種の教養が要求されるということです。日本人同士で話す場合で言えば、「塞翁さいおうが馬」だとか、「泣いて馬謖ばしょくを斬る」とか言いますが、そういう古典や故事の知識です。そういった教養を身につける場がイギリスではオックスフォード、ケンブリッジであり、アメリカで言えば東部のイエールだとかプリンストンといったところなんです。

つまりここには二つの問題があるわけです。第一に、とにもかくにもコミュニケーションをどうやってとるか、第二には、トータルな教養の力をどうやって表現するか。普通の英語を話すということはたぶん日本人でもできるようになると思います。世界中がビジョン・イングリッシュになっているわけですから、ある意味ではインターネット的な英語ができるようになれば何とかなる。けれども、その上のレベルで微妙なところをきちんとやるとなると、ときにはアメリカ人でさえイギリス人にはかなわないわけですから、日本のリーダーたちにそういった能力を期待することができるのかどうかが問題になります。普通にやったら絶対負けるわけですから、何かほかの方法でやらなければいけない。ほかの教養を出せるような方法が要るんでしょうね。でもそれをつたえつにはやはり英語が要る。

国際クラブ社会に通用するリテラシーがあるはずだー竹中

それは難しい問題ですね。

ダボス会議のことを紹介した本はたくさんあるのかもしれませんが、いちばん最初にはっきりと紹介した本はおそらく木下玲子さんがお書きになった『欧米クラブ社会』でしょう。木下さんは朝日新聞の船橋洋一さんの奥さんですが、この『欧米クラブ社会』の冒頭にダボス会議のことが書かれていて、私は強い印象を受けました。あれはクラブ社会の発想ですね。

これはおそらく何段階かで考えなければいけない問題です。本当に東部のエスタブリッシュメントないしはオックスブリッジの人たちと同じような知的レベルというおは、よっぽどの条件が重ならないと日本人には無理です。

ただ、重要なのは、最低限の知的なリテラシーというのはあるんだと思います。知的対話のマナーというのがある。「これは、おまえ、わかるだろう」という暗黙の了解という話ではなくて、理論的に経済学や政治学のコンセプトを使って、誰が見てもリーズナブルな、そういう話をしていくということです。これは日本人でも訓練でできるとと思います。

ただ、日本の問題は、英語が単にヘタだということではなくて、英語が下手だということを言い訳にして、知的なレテラシーを身につけるということを明らかに怠っているというところがある。特に日本の中心の、わりとエスタブリッシュされたところにいなければいけないはずの政治家や財界人のトップ、あるいは知的なサークルでもそうだと思いますが、私的なリテラシーに対する謙虚さを失っている人がずいぶん多いと思います。

そういう部分が、いま日本で言われている「IMF批判」や、「ワシントン・コンセンサス批判」とか、「だからアメリカはダメなんだ、それみたことか」というような議論に安易にあらわれてきている。また日本のジャーナリズムはそういう議論に安易に乗っかっている。私的な最低限のリテラシーというか、それに対してはもっと謙虚でいなければいけないのではないでしょうか。

詩的財産を持っているだけでは役に立たない。そう伝えるかが問題― 阿川

私も同感です。言い方をかえれば、日本人がオックスフォードの英語をしゃべり、オックスフォードの教養を持つというのは、はっきり言って気味が悪い。そういう人がもしいたとしても、相手にしたくない。そうではなくて、ある種独自の知的水準を持っているということがまずあって、それを相手に伝えられるということですね。

アメリカ人というのはある意味では知的コンプレックスを持っています。アメリカのエリートはみんなオックスフォードやケンブリッジに行く。クリントン前大統領も行っています。それは言ってみれば、本家帰りみたいなものです。ローズスカラーになることはアメリカのエリートの一つのステータス・シンボルですが、この留学制度は英語圏内の優秀な人をオックスフォードで呼んでやるというものですからね。

アメリカ人は、自分たちは知的財産の蓄積においては、いくら頑張ってもイギリスにかなわないというコンプレックスがありますが、逆にほかの文化に対しては、比較的寛容です。文化相対主義な考え方がある。ですから日本独自の思想、伝統には敬意を払う。しかし、日本が伝統を持っているだけではだめなんです。さきほどのリテラシーの話で言えば、持っているだけでは何の役にも立たない。アメリカに対する日本の歴史、文化の優位を国内でさかんに言う日本人がいますが、それだけではだめで、それをアメリカに対して伝えることができるかできないかが問題なのだと思います。

海外に対するアカウンタビリティを持っているか?- 竹中

このあいだ、あるジャーナリストがバンクーバーの町を歩いていたら、古本屋で後藤新平が書いた『関東大震災実録』という本を見つけたそうです。

関東大震災のときに日本は世界の国々から援助を受けました。その感謝を込めて後藤新平が書いた本です。大都会で地震が起きるとはどういうことなのか。-これは人類共通の体験である。だからそのときのノウハウを世界に対して発信するのが我々の義務だという考え方です。

明治の人はそういう考え方を持っていた。やはりわかっているだけではだめで、それを発信していくということです。

同じことがいまの日本についても言えます。日本のやり方は欧米とは違うと言いますが、どう違うのかということが国内ですらちゃんと議論されていません。これは経済学者の責任かもしれませんが、バブルはどうして起こったのか、だれも解明していません。バブルが起こってからすでに一〇年近く経っているのに、いまだにやっていないのです。要するにそういう知的な蓄積を行う環境が、日本では圧倒的に不足しているとしか言いようがありません。

続く・・・・第3回『世界標準で生きられますか』第二章:日本人はなぜ尊敬されなくなったか

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第1章②を読んでみてのまとめ

 

竹中さんの本では、英語がいかに大事かが示されていますが、私は自国の言葉を大切にすることがもっと大切なことだと思います。

たとえば近隣諸国で言うと、韓国は以前漢字を使っていましたが、今は漢字を読める人も書ける人も少なくなってきたようです。それは、ベトナムも同じで、ベトナムの古い寺院などへ行くと漢字が書かれていますが、現地の人たちはその文字を読むことが出来なくなってしまったようです。それは、自分達の歴史を読むことが出来なくなった、ということです。

もし、この国でも英語が主流になり、日本語の国語や古典を忘れていくようになれば、古文書が読めなくなってしまう世代になってしまいます。そんな悲しいことはありません。

今は技術の発展によりどんな言葉からもそれぞれの一番得意とする言葉への変換ができるのですから、私はそれぞれの国が自分の言葉を大切にしてほしいと思います。テクノロジーの発展した世界では、英語が国際語になる必要はないのです。今はスマホにだって翻訳機能が付いているのですから、今後の世界において、もっと小さく手軽い翻訳マシンができるかもしれません。

そのような世界を想定して、自国の言葉をもっと大切にしてほしいと思います。自分の一〇代も二〇代も前の先祖が書いた手紙が残っていて、それを自分でも読むことが出来たら素敵ではないですか?

竹中さんの文章から強く感じることですが、カタカナ語を使いすぎて文章の意味が分からない、日本語を話す日本人に自分の文章を理解してもらおうという意思の感じられないないことがわかります。まるで、片仮名語を使いすぎて日本語が疎かなある知事のようになってしまいます。日本語もきちんとしゃべることが出来ない、何を言っているか分からない政治家がまた誕生してしまうかもしれません。それでは、すべてが中途半端で、発信する言葉の意味を国民が理解できない状況になってしまいませんか。

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