有名人のコラム

第3回『世界標準で生きられますか』第二章:日本人はなぜ尊敬されなくなったか

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『世界標準で生きられますか』日本は知的なものにお金をかけていない⁉とはどういうことなのでしょうか

今回は第3回目になる、竹中平蔵さんと阿川尚之さんにより1999年に書かれた『世界標準で生きられますか?』という本についてです。

ベーシックインカム議論の分野の第一人者としてメディアが取り上げている竹中平蔵さんの思考を知るために、竹中さんの本を読んでいこうと思います。

今回は3回目で、『世界標準で生きられますか?』の『第二章』です。

♦第一回目の第一章①はこちらになります。

♦第二回目の第一章②はこちらになります。

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第二章 日本人はなぜ尊敬されなくなったか

なぜある時期から日本人は地的に尊敬されなくなったのか― 竹中

一九九七年のアジア危機以来、アジアの経済が大きな打撃を受けて深刻な状況が続いています。日本の政府はアジアに対して日本が貢献すると言っていますが、日本が本当に貢献できることがあるとしたら、バブルはどうしておこったのか、その原因を究明することだったと思います。日本はアジア諸国に先駆けてバブルが起きたわけですから、バブル期の政策の何が良くて何が悪かったのかということを、知的な資産として発信していくことがいちばん重要です。

後藤新平に象徴されるように、ある時期までの日本人というのは非常に知的に尊敬されていたと思います。尊敬されなくなったのはかなり最近のことではないでしょうか。

侍や貴族の消滅が日本から威厳を失わせたー 阿川

それについて二つ感じることがあります。

一つは、関東大震災が起こったときに、後藤新平が最初にコンタクトしたのはチャールズ・ビアドというアメリカの歴史家で、アメリカの知性を集約したみたいな人でした。ビアドは日本に二回来ていると思います。彼のアメリカ史に関する学説にはいろいろ批判がありますが、にもかかわらずアメリカ歴史学の泰斗です。この人物と後藤新平がやりとりして、東京をどうやって復興させたらいいのかということを一生懸命話しています。そういうふうな交流があった。いまでも同じような交流はあるんだと思いますが、そのころとは迫力が違う感じがします。

もう一つ、一民族の伝統が他の民族にある種の影響を与えるということについては、最初に幕府の遣米使節としてワシントンへ行った日本の侍たちの例があります。アメリカ人からすれば日本の侍はどこか遠い、よく分からないところから来た人たちなのですが、にもかかわらず気品があって素晴らしい人たちだという印象をみんなに与えています。ウォルト・ホイットマンが、東洋の島国から来た高貴な侍についての詩を書いている。そういう気品のようなものが日本人からだんだんなくなっているのかなという感じがします。

ではなぜ伝統や文化を感じさせる人間が少なくなったのかというと、難しい問題で、よくわからないのですが、一種のハイソサエティ、ノブレス・オブリージュを担うエリート、貴族や侍がいなくなったからかもしれないという気がします。

明治維新はなぜできたのかというと、武士道の精神を持った侍がたくさんいたからです。しかも彼らは暇だった(笑)。

普通の人が頑張る時代と才能のある人が人の三倍頑張る時代ー竹中

ちょっと大ざっぱな見方かもしれませんけれども、歴史のいろいろな局面のなかで、普通の人が頑張らなければいけないときと、普通の人が頑張るだけではどうしようもないときがあるんだと思います。

今は普通の人が頑張るだけではどうしようもないときで、本当に才能があって人の三倍ぐらい努力する人がさらに努力しなければいけない。その人たちにさらに依存しなければいけない時期になっているんだと思います。明治維新のときもそうだった。戦後の改革のときもある意味ではそうだった。

いまの時代というのは、本当にフロンティアが開けている時代です。マーケットが広がって、技術の可能性が広がって、世界のシステムが変わって、何でもできる。フロンティアが広がっている時代というのは、特別な人が特別に頑張らなければいけないという局面なんです。特別な人が能力を発揮する仕組みを、普通の人が頑張る社会のなかで我々はきっと失っているんだと私は思います。

その象徴が税制です。今の日本では特別に頑張る人から高い税金を取っている。宅別な人のやる気をなくさせるような税制に日本はなっているわけです。

変わり者を大切にするイギリス、変わり者を排除する日本ー 阿川

いままでは日本ではユニークな才能を持った特別な人が頑張らなくても、みんなでやっていけばいいというシステムでずっときていた。それが、ここにきてどうも才能を発揮しにいくシステムだとうまくいかないということになってきた。でも日本は制度的にまだまだ才能のある人が活動できるようにはなっていません。

数学者の藤原正彦さんは、自著『遥かなるケンブリッジ』のなかで、「イギリスでは変わり者を大切にする」と言っています。その他の国と比較して特にイギリスがそうなのかはよくわかりませんが、異端を排除しなかったということで、イギリスやアメリカというのは危機のときに特別な人が出てくる土壌みたいなものがあるのに対して、日本はそうなっていないところがあるように思います。

欧米社会は積極的にエリートをつくる―竹中

さきほど紹介した『欧米クラブ社会』という本のタイトルは、非常に象徴的だと思います。この本の中にはローズカラーの話が出てきます。

ローズからというのは、セシル・ローズがつくった制度ですね。アメリカでもそういうエリートをつくる制度というのがあって、アメリカですごくできる人を調べていくと、ローズカラーの出身者が圧倒的に多い。

エリートの養成に複数もの路線があるー阿川

もう一つは、ホワイトハウス・フェローです。通常の役人で、ポリティカル・アポインティー(政治的任命)ではない若い人を選んで、ホワイトハウスのフェローにする。この人たちが随分と偉くなっている。例えば湾岸戦争のときの統合参謀本部議長だったコーリン・パウエルなどがそうです。私の知っている人でも何人かいます。アメリカの連邦政府というのはとても大きくて、軍も入れれば何十万人といるなかから、これはできそうだというのを引っぱってきて、突然ホワイトハウスなどワシントンの中枢で働かせる。そういう思い切ったことをやっている。

アメリカのエリートをつくるもう一つの道は、スプリーム・コート・クラークつまり合衆国最高裁判事の助手だと思います。ロースクールで一番成績の良かった人が、卒業後一年ほどたつと最高裁の判事の執務室にべったり張りついて、判決起草を手伝う。彼らはだいたい一年でやめますが、その後著名な法律家や法律学者になったり役人になったり、いろいろ活躍している。

アメリカにはそういうトラックが別にある。

日本は知的なものにお金をかけていないー竹中

多元的なトラックを社会が用意しているかどうか。社会がそれを認知しているかどうかということです。

わたしがアメリカに住んでいたときのことですが、ある日突然、市の教育委員会から手紙が来て、子どもを特別な学校に移したらどうかというサジェスチョンがありました。科学の勉強ができる子どもについては、それをさらに伸ばすための特別な学校があるのです。それがすべてパブリックなんです。

アメリカに行く前に、私は兵庫県の芦屋に住んでいましたが、芦屋の教育委員会は変なところで、通信簿をつけるなという方針でした。それは差別だというわけです。それがアメリカのモンゴメリー・カウンティに行くと、子どもを優秀な人ばかり集めているところに移したいと言ってくる。これはたいへん象徴的なことだと思いました。

それが結局、大学教育の問題に集約されてくるんだと思います。特別に優秀な人を特別に選抜しているかということです。日本ではみんな、一回の試験で、偏差値でワンショット・イグザミネーションを見るわけですから、こんないいかげんな制度はありません。何でそうなっているのかというと、それは安上がりだということなんです。一人一人を見て、この子はこれに向いている、あの子はこれだなどということをやったら、ものすごく時間とお金がかかるということです。
とどのつまり、ちょっと経済学者的になりますが、我々の社会は地的なものにお金をかけていないんですよ。

そう考えると、日本とアメリカの大学の違いが非常にわかりやすい。日本は教育熱心だというけれどもまったく違う。知的なものにお金を使っていない。だから日本の大学の授業料は安いんです。日本の私立大学文系の年間授業料は100万円弱、ハーバード大学は300万円です。日本の物価水準はアメリカより五割高い。そのなかで授業料はアメリカの三分の一になっている。日本の大学の選抜は決めますからすごく安上がりになっている。

じつは日本の大学は入試で儲けています。こんなにいい商売はありません。偏差値はコンピュータが全部はじいてくれて、大学の教員は時間も労力もかけなくてよい。一人当たり受験料を四万円いただいて、定員の10倍は受験してくれるわけですから、一日の売上が数億円になる。マンモス大学は一シーズンに10学部ほどやると100億円になる。それが大学の財政を支えているわけで、その代わり授業料はアメリカ三分のの一なんです。

(続く・・ 第4回『世界標準で生きられますか』第三章①:日本を繁栄させたシステムがいま機能しなくなった

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