『世界標準で生きられますか』他人を信頼できるかどうかの判断
今回は第4回目になる、竹中平蔵さんと阿川尚之さんにより1999年に書かれた『世界標準で生きられますか?』という本を読んでいきます。
今回の4回目は『第三章①:日本を繁栄させたシステムがいま機能しなくなった』です。
♦第一回目の第一章①「国際舞台で言葉を持たない日本人」になります。
♦第二回目の第一章②①「国際舞台で言葉を持たない日本人」になります。
♦第三回目の第二章は「日本人はなぜ尊敬されなくなったか」になります。
第三章①:日本を繁栄させたシステムがいま機能しなくなった
現代の家元制度は大衆化によって成立した - 阿川先般、IBM主催の伊豆会議というのがあって、日本の魅力とは何かというテーマで二日間合宿をやりました。なぜ「日本の魅力」を取り上げたかというと、日本はいまどうも調子が悪い、そこで日本独自の魅力をもう一度掘り起こし、認識しなおしたらうまくいくのではないか、テーマを設定した人たちはそう考えたようです。この会議初日に基調講演をしたのが国立民族学博物館で茶の湯を研究している熊倉功夫先生という学者でした。何で茶の湯の話なのかなと思ったのですが、この熊倉さんの話が、じつにおもしろかった。
熊倉さんによれば、茶の湯の歴史は幕末に一度、表千家、裏千家ともダメになるんだそうです。なぜかというとパトロンであった各藩の殿様がいなくなったからです。しかしその後、明治の財政界人、例えば三井物産を大きくした益田孝といった人たちが愛好家としてお金を出して、茶の湯の支えた。それが終わるのがだいたい一九四〇年頃なんだそうです。一九四〇年に家元制度が復興して、戦後はずっとそれできている。
現代の家元制度とは何かというと、熊倉さんによれば、それほど際立った個性や能力がなくても、ある型を覚えてそれに従ってやれば楽しめるという、茶の湯の大衆化だったのです。家元制度には年功序列をはじめ、不思議に野口悠紀雄さんが言われている一九四〇年体制と重なるところがある。現代の日本を支えてきたのは、基本的に家元制度に似たある型を持った平等な制度だということです。だれでもがやれる、普通の人がある程度頑張るとそこそこいくという制度で日本はずっときていた。ところが、いまはまた家元制度が揺らいでいるのだそうです。現在の日本を象徴している話でおもしろいと思いました。
大衆化のメリットがいまはデメリットになっているー竹中
家元制度は大衆化だというのは興味深い話ですね。
その話の延長で言うと、大学も大衆化しています。ですから授業料も安くして、誰でも行けるようにしたわけです。戦後の日本は、明らかに大衆化のメリットを享受したということです。普通の人が大学に行って、その人がどんな職業にもつくことができるという、大衆化のいい面がすごく極端に出た社会が日本です。ですからその反面のデメリットがいま問題になってきている。
機会均等より結果の平等を重視しすぎた弊害ー阿川
それは日本だけではなくて、アメリカも悩んでいます。アメリカには、機会の均等という考え方が強くあって、どんな貧しい人でも機会を与えて、出来のいいのは引っ張るということをやっている。ところがあの国には一方で結果の平等という考え方も根強くあって、日本と同じように社会の標準化をめざしてやっている。機会の均等を指示する人々と結果の平等と重視する人々の間に抜き差しならない思想的対立があって、その緊張のなかで、多様な社会政策の是非が論じられている。それに対して、日本は機会の均等のことはあまり言わなくなってしまった。結果の平等ばかりやっているという印象があります。
それはなぜかというと、これも一九四〇年体制に密接に関連しているような気がします。戦争準備のためにとられた国家総動員体制というのは、全国民を戦争にかり出すためのものです。国民を兵士にして戦場に送るには、平等しなかったら不満が出ますから、みんな平等化した。そのときにマキシズムの影響も相当あったと思います。マルキシズムに対抗するため、社会民主主義的な手法を取り入れた。その戦時体制の遺制が戦後のキャッチアップにも有効だったため、そのままシステムは生き延びて戦後社会の大衆化の基盤になっているのではないかと思います。
日本システムの前提が変わってしまったー竹中
日本のシステムには二つの要因があって、オリジンはそれぞれ違うのかなという感じがあります。一つはいまおっしゃったように、キャッチアップのためには何がいいかということです。キャッチアップのためには、特別できる人が特別頑張るよりも、みんなが八〇パーセントぐらいの力を出せたほうが絶対にいい。綱引を考えるとそうですね。綱引は少々力の強い人が一人で頑張っても絶対だめです。いままでのキャッチアップのプロセスというのは綱引のようなもので、何をやるかはわかっていますから、みんなが力を合わせたほうが絶対いい。そのためのシステムを日本という社会はある意味では効率的につくった。
もう一つは、同質性と暗黙の調和を大事にするシステムです。これはまさに家庭のシステムなんです。家庭内で法律をつくる必要はありません。それはお互いがお互いを理解できるからで、日本の社会の出発点というのは、非常に小さな社会だったということだと思います。明治維新のとき、日本の人口は約三〇〇〇万人です。江戸時代をとおしてだいたい三〇〇〇万人くらいの人口を維持してきた。三〇〇〇万人ていどの規模で、しかも同質的な社会であるならば、それでいいんです。形式的な法律をつくるよりも、よし、一緒にやろうというほうがきっといい。
ところが、そういう前提が変わってしまった。人口が四倍になって、国際的になってきて、非常に異質なものが入ってきて、アメリカで何年か暮らした人とか、帰国子女などが入ってくる。その変化をまだ日本社会は認めていないんですね。
日本はほんとうに高信頼社会か?-阿川
それは三〇〇〇万人が四倍になっただけではないのでしょうね。かつては三〇〇〇万人のなかでいろいろな事柄について決定権を持っていた人は極めて少なくて、トップのエリートが指示すれば、下は全部動くという社会だった。ところがいまやみんなが関与していて、なかなか動かなくなってきている。
最近私が大変影響を受けた本があります。北海道大学の山岸俊男先生の『信頼の構造』という本ですが、山岸先生はアメリカに一〇年ぐらいいて、社会心理学を勉強した人です。彼は、日本は人々がお互いに信頼をしていて、法律が尊重されて、高信頼社会だと思われているけれども、じつは違う、アメリカのほうが高信頼社会なのだと言うのです。
なぜかというと、竹中さんがいま言われたような、家族的な集団のなかで秩序を保っているのは相互の安心であって、本当の信頼ではない。ある種の閉鎖的な集団のなかで安定的な関係が成立しているというのは、相手が信頼すべきかどうかという判断に基づいているのではなくて、このなかにいれば安心だというだけです。何も考える必要がない。その典型はヤクザの世界です。
ところがアメリカは、その集団的な安心感がどちらかと言えば希薄な国で、一〇人の人間がいえれば、そのなかにはレイプ犯もいるかもしれないし、過激派もいるかもしれない。どんな人間がいるかわからない。ですから他人を見たときに、こいつは信頼できるかできないか常に判断しなければならない。そして何度もこれをやっていると判断する能力が高まる。山岸先生の研究によると、この能力は実際に日本人よりアメリカ人のほうが身についているのだそうです。
もう一つおもしろいのは、まったく知らない人がおそらくはいい人だと思う人の割合がアメリカのほうが日本より高いことです。どういうことかというと、日本人は内向き志向で、他人は信頼できないと思っている。そもそも集団内部の安心にひたり切っているから他人を信頼するしないかという判断をしないですから赤の他人は泥棒だと思うところがある。アメリカ人はいつも他人が信頼できるとかどうか判断していなければいけないから、その能力が高く、しかも他人を判断する前提として、大体いい人だと思っているらしい。実験結果を見るかぎり、統計的に有意の差が見られる。逆のような気がしますが、これは繰り返し繰り返し実験をやった結果なんだそうです。
もう一つおもしろいのは、ではなぜアメリカはあれほど法律と弁護士に頼る訴訟社会なのかというと、山岸先生の一応の答えは、アメリカでは、他人の信頼性に関して判断を間違えたときに比較的公正に法律がバックアップしてくれる。取引がうまくいなかんかったときに、訴えて出ることのできる司法制度が、ある程度確立している。日本ではそういった法的処理がそれほど期待できないから、閉鎖的な人間関係のなかに安住する傾向が強くて、外に出ることがなかなかできないんだというのが彼の意見なんです。
自分の経験に照らしてもこの考え方は、ある程度当たっているような気がします。さきほどの知的な対話ということで言えば、どうも日本人はアメリカを信頼が失われぎすぎすした法律万能社会というふうにステレオタイプにこれまで見すぎていて、こういうふうに考えた人はいままであまりいないという感じがします。山岸先生は最近、中公新書で『安心社会から信頼社会へ』という新著を出されて、日本人が信頼能力を高めることの必要性を説いています。
ポジティブなジャッジメントができない日本人ー竹中
信頼というのは、ジャッジメントが入るという意味でしょう。日本人はジャッジメントをしたくないんですね。ジャッジメント以前の分野は安心だというわけです。それで、いざジャッジメントをしなければいけなくなったときに、ポジティブなジャッジメントを日本人はしているかというと、かなりネガティブだと思うんです。
出典:『世界標準で生きられますか』竹中平蔵、阿川尚之