有名人のコラム

第7回『世界標準で生きられますか』第四章②【法の機能不全が日本をだめにする】

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『世界標準で生きられますか』法の機能不全が日本をだめにする

今回は第7回目になる、竹中平蔵さんと阿川尚之さんにより1999年に書かれた『世界標準で生きられますか?』という本を読んでいきます。

今回の7回目は、『第四章②:法の機能不全が日本をだめにする』です。

♦第1回:第一章①「国際舞台で言葉を持たない日本人」

♦第2回:第一章②「国際舞台で言葉を持たない日本人」

♦第3回:第二章は「日本人はなぜ尊敬されなくなったか」

♦第4回:第三章①「日本を繁栄させたシステムがいま機能しなくなった」

♦第5回:第三章②「日本を繁栄させたシステムがいま機能しなくなった」

♦第6回:第四章①「法の機能不全が日本をだめにする」

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第四章②【法の機能不全が日本をだめにする】

検察の裁量の問題をもっとまじめに考えるべき―竹中

それが近年、日本の切実な社会問題になってきていると思います。まさに法律に書かれていることとエンフォースメントとのグレーゾーンを我々の社会は大目に見てきたのですが、それが大目に見られない状況になってきています。

端的に言えば、官僚が接待づけになっていて、検察に摘発された不祥事などが、まさにその問題なんです。どう考えても官僚が接待を受けてはいけないんです。別に二年前からそうなったのではなくて、前から法律で禁止されているのに、やっていいことになっていた。それはさながら制限速度八〇キロのところを一〇〇キロで走っていいことになっているのと同じです。

私の知っている大蔵省の人も逮捕されましたけれども、それは急に検察がやってきて、「あなたは五年前にあそこを一〇〇キロで走っていただろう」と言われたようなものなんです。逮捕されたほうは、「それはやってもいいことになっていたではないか」という感覚だと思います。そういうことが現実に起こっているわけで、検察のディスクレッション(自由裁量)というのを我々の社会はもうちょっと真面目に考えるべきだと思いますね。

検察の裁量というのは、法的に考える余地はないものなんでしょうか。

ルール変更の過程が不透明ー阿川

検察のディススクレッションというのは、アメリカでも常に議論になっていて、それをどうするかというのは大きな問題です。ですから日本だけの問題ではないのですが、今日本で起きていることは、検察のディスクレッションの許容範囲がある種のルール・オブ・ローに従っていて、五年前にいまと変化がないのなら問題はありませんが、それがもし突然説明もなく変わったというのであれば、これは問題です。

一般的に言えば、今の日本の法執行の問題は、例えば今までは村の掟でやっていたのがやれなくなって、それではルールに基づいた一貫性のある法のエンフォースメントができているかというと、そちらもできない。そういう中途半端な状態だと思います。いま日本で一番こわいのは、日本的ないい意味での人治が機能しなくなっていながら、新しい法治社会が確立したとは言いにくいことです。一方で村の古い掟共同体による規範のようなものは機能しなくなって、隣のおばさんがカレーに砒素を入れるかもしれないという状態になっているのに、それを補完する法制度が機能していない。そこでだれが活躍するのかというと、検察が出てきている。検察がそこに生じた隙間を埋めようと非常に努力している。もちろんよかれと思ってやっているのだとは思うけれども、その判断基準は国民にはよくわからない。検察が途中でルールを変えたとすれば、そのことについて、だれがどのようのにやっているかということがよくわからない。

国防問題における自衛隊の扱いなども同じような問題がありますね。よくわからないところでグレーでやっている。明確な基準がない、あるいは見えない、その危うさみたいなものが今の日本でこれからさらに問題になってくるという気がします。

マスコミも批判できない検察の自由裁量問題ー竹中

私はテレビ番組でもずっと言い続けてきたんですが、なぜ逮捕したかということの説明はもういいから、なぜいままで逮捕しなかったのかということをちゃんと説明してくれということです。

いまの日本社旗の問題というのは、一つは官僚組織が批判されていますが、これは官僚の自由裁量が批判されているわけです。ところが、大蔵官僚の自由裁量権を裁いているのは、検察官僚の自由裁量なんです。ですからこれはますます官僚の自由裁量という深見に入っていっているような気がして、私はその点が非常におそろしい。

マスコミはやはり検察がこわいから、批判はほとんどしていません。

アメリカでも検察のあり方には批判が多いー阿川

検察を最終的におさえるのは、建前から言えば、検察を指揮観察する法務大臣そのものの任免権を有する内閣総理大臣なんでしょうね。けれどこれはあまりにも遠い。しかも日本の場合、検察が独立して強いし、ある意味では立派すぎるから、なかなかおさえるチャンスがない。

アメリカの場合、州の検察官は選挙によって選ばれる。もっともそうすると検察が一般受けするような刑事訴追ばかりやるようになるとか、いろいろ批判があって、アメリカでも問題になっています。ただアメリカの場合、検察がいくら張り切っても重罪に関しては一般人からなる大陪審(グランド・ジュリー)が起訴不能を決定するという歯止めはあります。日本ではいったん検察が起訴をすると決めたら九九パーセント有罪ですから。

変わったのは役人接待、損失補填、株主総会の三つだけ、ほかは何も変わっていないー竹中

結局、経済の問題にもそれが出てきている。例えばいま、損失補填はいけないと言いますが、それは今に始まったことではなくて、昔からいけなかった。ところが急にそれが言われてきた。それを例えば財界のトップが、「あそこは総会屋から株をもらってけしからん」とか、「近代的な経営をしているのか」とか批判するのですが、ではあなたの会社は女性を差別していないのかというと、私の知るかぎり女性差別をまったくしていない日本の企業など絶対にないと思います。私は毎年、学生の就職を見ていますけれども、露骨な差別が行われています。アメリカ的な基準で言えばどの会社も有罪です。それと同じような問題がいまでもほったらかしにされている。そういう観念から言うかぎり、日本はまったく進歩していないと思います。

この間で何が変わったかというと、大蔵省の役人の接待と、損失補填、株主総会、その三つだけが変わったんです。あとは本質は何も変わっていません。

経済戦略会議では法制度問題をどう扱ったのか?- 阿川

それではどうしたらいいかという問題になるわけです。竹中先生は経済戦略会議で、今後の日本のあり方について提言する立場にあったわけですが、経済戦略会議では、法制度の問題をどう扱われたわけですか?

今後実現すべき基本理念はプルーラリズムにありー竹中

経済戦略会議には、法律の専門家はいませんでしたが、とにかくキーワードを挙げるとすれば、この社会をもっとプルーラル(多元的)にすることなんだと思います。まさに司法と行政と律法というのは牽制し合うところに意味があるわけですが、いまはお互いに棲み分けして、相互不干渉になっています。そうではなくて、政治は政治でプルーラルにしなければいけないし、それぞれがプルーラルに重なるような中身にしていかなければいけない。

じつは、アジアの経済を考えていくと、結局はこの問題に行き着きます。現在のように高度な市民社会になってくると、我々の社会を形づくる基本理念は、プルーラリズム、多元主義に尽きると私は思います。

日本に批判的はアメリカの政治学者は、必ずパターンド・プルーラリズム(パターン化された多元主義)という言葉を使って批判してきます。日本は確かにプルーラリズムの国だが、それはパターン化されたプルーラリズムにすぎないというわけです。彼らの言い方だと、経済においては、高く売りたい人と、安く買いたい人がいるのですが、資本主義であり、市場経済である。政治の面では、農産物の輸入に反対する人と賛成する人がいるのが、プルーラリズムだし、民主主義である。民主主義と市場経済というのは、経済、政治レベルでの、それぞれのプルーラリズムの実現だということです。日本は間違いなくプルーラリズムの国なのだが、それがときどき機能しない部門がある。だからパターンド・プルーラリズムだというのが彼らの批判です。

じつはアジアの経済危機というのはまさにこれです。市場経済、市場の活力というふうに言いながら、アジアの国のほとんどは、外国為替市場においては市場経済を排除してきました。ドルと各国通貨をリンクさせていた。だからそこがプルーラルになっていなかったがゆえに、情報の共有化とか、金融技術の改革とかいう圧力が重なって、一気に矛盾が出てきた。

プルーラリズムが不十分なインドネシアでは、それが政治不安というかたちで出てきました。韓国では財閥という、プルーラリズムが働かない面に出てきた。日本は護送船団方式でやってきてプルーラリズムが働かない金融の分野に出てきた。そういう意味で我々が抱えている問題というのは、プルーラリズムなんですがね。

それに対して、中途半端なプルーラリズムだから、もっと徹底的にプルーラリズムにしろ、もっと自由化しろというのがアジアの危機の際にIMFが出した処方箋です。

このIMFといちばん遠いところにあるのが中国です。まったく自由にしないで、まったく管理する。徹底してプルーラリズムが進んだアメリカと、ものすごく管理の進んだ中国が、皮肉なことにいまの世界経済のアンカーになっている。その中間の国はみんななにかしかやられている。

二階建てのプルーラリズムが浸透しているアメリカ社会ー阿川

アメリカについてはいろいろな批判がありますが、プルーラリズムという点では、アメリカは国の成り立ちからして、比較的そのへんについて直感的にも理論的にもよくできていると思います。ジェームズ・マディソンが中心になってアメリカ憲法を書いたときに、三権分立ということを言った。三権分立は一種のプルーラリズムですね。日本でも三権分立というと何と無くわかったような気がしますが、じつはアメリカのプルーラリズムにはもう一つあって、それは連邦制なんです。

もともとアメリカ合衆国は一三州からできていて、一三州の一つ一つが主権国家だった。一三州がそれぞれ有していた権限の一部を委ねてできたのが連邦政府です。それをアメリカ国民の立場で考えると実際どういうことになるかというと、州政府にもっていって解決しない問題は連邦政府に持っていく、連邦政府に持っていってだめなら州政府に持っていくという、救済を求める先が二つある。二つの政府があるようなかたちになります。二重の主権というか、まず主権が連邦レベルと州レベルに分かれていて、さらに各々が立法、行政、司法に分かれている。そしてそれぞれが互いに競争し合うことによって均衡が保たれています。

プルーラリズムというか、政治過程に複数のチャンネルのない国では、どういうことが起こるかというと、社会のマイノリティがずっとアンダークラスになってしまう。アメリカでもそれはありました。黒人がずっとアンダークラスだったわけです。じつはそれを解決したのは連邦制度でした。州レベルでいくら差別の問題を解決しようとしてもだめだから、結局、連邦に持っていって、連邦の行政、司法、立法でやって何とかなったというところがある。逆にいまでは、連邦がやりすぎだから州に戻ろうという動きが出てきている。

いま日本では、ものごとがうまくいかない。そこで何かとアメリカが引き合いに出される。これを見ていると、日本でプルーラリズムを提供しているのは、アメリカなのではないかという感じがします。日本の普通の人がいまの政府に対して不満を持っていてデモや陳情をしても効果がないとしたら、最後に訴えるところはアメリカしかありません。実際に、通産省などはアメリカに陳情して外圧をうまく使ってきたわけです。この変則的なプルーラリズムがいいかどうかは、よくわかりませんが。

経済戦略会議こそがプルーラリズムを日本に定着させるきっかけになるー竹中

プルーラリズムの一つの象徴は市民運動ですし、消費者グループというのはプルーラリズムの象徴です。だから、アメリカのUSTR(米通商代表部)こそが日本最大の消費者団体であるというふうに真面目に言われてきたわけです。ところがそれも危うくなってきた。アメリカは結局アメリカの利害で動きますから、日本の消費者の利害と違うところが、一九九〇年代になってものすごくはっきりしてきました。

しかし日本でも、プルーラルな可能性というのが少し出てきています。これはちょっと手前みそになりますが、経済戦略会議というのはまさにプルーラリズムです。霞が関でも永田町でもないところで政策議論をやるんです。経済戦略会議ができたときにある新聞は、「これは屋上屋を重ねる組織である」と批判しています。しかし、これこそがプルーラリズムです。屋上屋を重ねるとか、二重投資ということを日本は極端に嫌いますが、プルーラリズムというのは二重投資になる。政府の政策は、霞が関が立案するだけではなくて、民間のちゃんとしたシンクタンクがあって、競ってチェックし合う。ですから、資源を二重に投資するわけで、プルーラリズムというのは高くつきます。霞が関に数百人の官僚を置いてくほうが短期的には絶対安上がりです。日本の政策が中学生が考えても何をやったらいいか明らかなような時代はそれでよかった。しかし、もうそうではなくなったのですから、もっとお金をかけましょうということです。さきほどの教育の問題と同じです。日本は本当にお金をかけていません。

廃藩置県がプルーラリズムな文化を日本から失わせた―阿川

アメリカでは、建国のとき州の権限を極端に小さくして実質的な中央集権国家にしてしまおうという話がありました。州が決めたことを連保政府が覆せるとの提案を制憲会議でしたら猛反対にあって、主要な権限は州に残した。もちろんその後連邦政府の権限は拡大を続け、他の国の中央政府とそれほど違わなくなってしまったのですが、アメリカがある種の二重権力からできていることが健全性を保っている背景にある。連邦と州の分権とはちょっと違いますが、日本の企業の人は、アメリカはなんで独禁法を司法省とFTC(連邦取引委員会)と両方がやっているんだと言うんですが、これもまさにプルーラリズムです。お互いに競争して、牽制する。ときには協力する。そういう重なり合う部分の多いシステムだからコストはかかりますけれど。

マディソンが「フェデラリスト・ペーパー」のなかで、権力の濫用をどうやって防ぐかについて、道徳だけではうまくいかないと書いています。人間の行動は道徳に頼るだけでは何ともならない。野望には野望をもって対抗させなければいけないと言っています。これはプルーラリズムの考え方なんですね。

日本にも、江戸時代まではプルーラリズムがけっこうあったのに、特に明治時代になって排してしまったように思います。例えば廃藩置県です。加賀藩、紀伊藩、尾張藩、薩摩藩など、それぞれに分化があって法体系があって、江戸との対比でプルーラルな価値観を担っていた。それが明治以降に失われた。そもそも明治維新を起こしたのはまさに地方にあったプルーラリズムなのに、明治維新政府はそれをつぶしてしまったような気がします。

(続く・・・・)

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