結果平等主義はそんな個性を奪い取ってしまう。ただ勉強のできる子だけが認められる世界でいいの?
学生時代、学校へ行くと試験があり、その試験に合格なければ卒業することはできません。その過程が6歳から18~22歳まで続きます。もちろん、義務教育は中学生までかもしれませんが、大概の人は高校や大学まで行きます。
そしてこの国は、教えられたことを暗記できた者が頭が良い人だと認識される世の中です。でも、人にはもっと違う才能もあったります。
脚本家・内館牧子さんは、そんな現在の社会に疑問を問い掛けています。勉強ができる子だけが認められる社会でいいのか。そんなことを考えさせらえるコラムをご紹介します。
本当に欲しいものを手に入れるためには、何かを潔く捨てる人にも幸せを感じさせられました
ものごとを冷笑する人間がいちばん不幸だと思いますね。熱くなる人をバカにして、何を見ても誰を見ても「よくやるよ。バカみたい」ってしらけて、せせら笑っている人たちって、幸せじゃないと思いますよ。
やっぱり熱くなったり、反発したり、挫折したり、夢を見たりするから生きていくことは面白いんじゃないかしら。冷笑する傾向は若い人たちにも広がっていますけど、その大きな原因のひとつとして、結果平等主義が考えられると思います。
結果平等主義が個性を奪う
小学校の徒競走では、みんなで手をつないでゴールする。中学になると、足の速い子は150メートル地点からスタートし、遅い子は100メートルから。もっと遅い子は70メートルから走り出す。結果、みんなが揃ってゴールすることになる。順位をつけるのは、足の遅い子に対する差別だと。
バレンタインの日には、チョコレートを学校にもってきてはいけないという。学校におやつをもってきてはいけないのは分かりますが、貰えない子が可哀相だからという理由で禁止している。
貰えない子は落ちこむことも大切だし、なぜ自分は貰えないのだろうと悩むことも大切。社会に出たらすごい荒波をかぶるんですから、幼いうちから正当な競争原理の中で育てることは必要だと思います。何でもかんでも結果平等にして無菌培養するのは、私はとてもヒステリックな考え方だと思っています。
私たちが神から与えられた才能は千差万別なわけで、かけっこが速いことも、絵が上手なことも、身体が大きいことも、どれもが才能であり個性ですよね。それをみんなでおしなべて結果平等にならそうなんて、とんでもない話です。
「あいつは数字はだめだけどサッカーはすごいよなァ」とか、「彼女は英語はできないけど、絵を描かせたらナンバーワン」とかって、他人からその天分を褒めてもらうことで自信になり、「私って捨てたものじゃないかも」って思える。
結果平等主義はそんな個性を奪い取ってしまいます。ただ勉強のできる子だけが認められ、その他の才能は評価されない。その閉塞感はとてつもないと思いますね。結局、子供たちにやる気を無くさせ、「どうせ俺なんか」というしらけた気持ちにさせる。大人の責任は大きいですよ。
何年か前に、ミス・コンテストに対する横槍が入ったことがありました。やれ女性差別だの、女性は外見ではないだのって。何を言ってるんだかねぇ。
スタイルがいい、顔が美しい、それは個性ですよ。その人たちは、美しくあるための努力だってしてるはず。私はミスコンをめざして頑張った女性たちからその立場を奪う方がよほど差別だと思っていますから、反対の嵐の中でミスコンの審査員をやりました。
結果平等を叫ぶ人って、結局、強者の発想なのよね。強い人間が頭の中でだけ、弱い人間を慮る。さも自分は良いことをしていると言わんばかりでしょ。冗談じゃないわ。引っ込んでてくれた方がよほど良いことよ。
ハレばかりでは不幸である
「ハレとケ」という言葉があるでしょう。願いが叶ったり、欲しいものを手に入れたり、そんな嬉しいことがハレ。ケとは日常の何の変化もない時、あるいはハレの来ることを信じて努力をする日を譬えて言う言葉です。
私が幼かった頃は、ハレとケが明確にありました。家族で外食する日や、遠足やお誕生日はハレ。あとはほとんどケ。だから、お誕生日を指折り数えて待つ子供が多かった。欲しいものが買ってもらえるから。そんなハレの日があったからこそ、淡々と続くケの時も一生懸命に生きてゆけたような気がする。
今の世の中はハレばかりです。美味しいものはいつでも食べられる。欲しいものも簡単に手に入る。恋愛だって高校生がすぐに肉体関係ですからね。恋愛のケも知らずに、10代からハレの関係を知るのも不幸だとおもいますよねぇ。我慢とか努力とかのケの姿勢を嫌う会社になっていますけど、何もかもハレになるっていうことは、ハレもケもなくなってしまうこと。これではしらけて冷笑したくもなりますよ。
昔は「もう幾つ寝るとお正月」と歌いました。お正月には年に一度のご馳走が食べられる。遅くまで起きていても親に叱られない。お年玉で欲しいものが買える。そんな待ち遠しいお正月は無くなってしまった。今は、毎日がお祭りみたいなものだからです。
「ハレとケ」のない時代。それは、とても不幸な時代だと私は思っています。せめて自分でそれを作る必要があるかもしれませんね。
ひとつ手にしたら、ひとつ捨てる
特に今の女性を見ていると、常に焦っているような気がしてなりません。結婚して子供は欲しい。でも仕事は続けていきたい。家も欲しいし、趣味の時間も充実させたい。まさに人生をハレで埋め尽くそうとしている。そんな生活はなかなかできませんってば。
私は一人の人間が手にできるものの数は限られていると思っています。だからあれもこれもと抱えていくうちに、手にのりきらないものは落ちていく。そして落としたものの中に、自分にとって一番大切なものがあったりする。
ひとつ手にしたら、ひとつ捨てるというくらいの気持ちでちょうどいいじゃないかと思いますね。
私は去年の十二月に、「夢をかなえる夢を見た」というノンフィクションの本を出しましたが、人間は誰しも夢を持ってるでしょう。でも、挑戦しないで死ぬ人も多い。リスクを承知で挑戦する人と、挑戦しないで安定した生活を選ぶ人と、どっちが幸福かというテーマで取材を続けてきました。
そこでもやっぱり、熱っぽく生きている人は、失敗しても幸せでしたね。後、本当に欲しいものを手に入れるためには、何かを潔く捨てる人にも幸せを感じさせられました。
私は物を書くことができて、好きな相撲とプロレスとボクシングを見ることさえできれば、それで充分。結婚も考えていません。だって、もうこれ以上何かを抱えることはできないもの。きっと、大切なものを落としてしまうことになるでしょうから。
脚本家・内館牧子さん
1948年、秋田市生まれ、東京育ち。武蔵野美術大学を卒業し、三菱重工業で13年半の勤務を経て脚本家となる。代表作に、「ひらり」「毛利元就」(ともにNHK)「週末婚」(TBS)「都合のいい女」(フジテレビ)など。2000年から10年まで、女性として初の横綱審査委員会のメンバーを務める。武蔵野美術大学客員教授、ノースアジア大学客員教授、東北大学相撲部総監督などを歴任する。
出典:PHP平成28年9月17日号
脚本家・内館牧子さんによるひとつ手にしたら、ひとつ捨てるというくらいの気持ちのまとめ
もっと、自分の得意なこと、好きなことを学生時代から学ぶことができていたなら、自分の人生も違っていたかもしれない、と思う方もいるかもしれませんね。
そして、学歴があるからその経歴を生かさなければいけない、などという価値観も存在している世界です。義務教育の中でも、個人が自分の好きなこと、得意なことをもっと積極的に学べる環境があったら素敵ですね。
また、「ひとつ手にしたら、ひとつ捨てる」ということを話されていましたが、一日二24時間しかない世界では、全てを手に入れることはなかなか難しいことかもしれませんね。