真の美しさとは自分との闘いの中からのみ生まれるもの
生きていれば、誰にでも苦しいことや不安に思うこともあります。
特に2020年のような年は、多くの人たちが自分の会社の将来や、自分の進路の将来に不安を感じていたのかもしれません。そして、時には鬱のような症状になることもあるかもしれません。
そこで、順風満帆な人生を歩んできたようでも、どんなに大学の教授や学長を経験してきても、心から不安がなくなることはありません。
ここでは鬱病を経験してきたノートルダム清心学園理事長・渡辺和子の体験談と、美しい生き方についてのコラムをご紹介します。
「人生の中で起こるすべての物事に、無意味なものは一つもない」ということ
今から三十年前、五十歳のときに私は鬱病を患いました。学長に就任してから十四年目、修道会の責任者にもなり仕事も多忙で、とうとう心がまいってしまったのでしょう。日々不安感に苛まれ、体もいうことを聞かない。誰かと会っていても、微笑むことさえできない。もう自分は生きている価値がないんだと。それは辛いものでした。
見かねたシスターたちが、私を神戸になる病院に入院させました。高台にある病院。病室の下は崖になっていました。ここから飛び降りたら楽になれる。私は死を考えさえしました。神に仕えるシスターとして、決して考えてはいけないことです。
私は神を恨みました。これまで人生をかけて神に仕えてきた。修道者としてがんばって働いてきた。なのにどうして神はこんな試練を私に与えるのか。病魔に襲われた二年間は、本当に辛く厳しい日々でした。
辛いことを経験して、はじめて見える景色がある
しかし今になって思えば、それは教育者として通り抜けなければならない道だったような気がするのです。その経験が私には必要だったのだと。
心を病んだ学生たちが私のもとを訪れます。自分を責め、自分が悪いんだと思い込んでいる。
私は言います。「ちっとも恥ずかしいことじゃないのよ。人間というのは弱いものだから、自分ばかりを責めてはだめ。私だって心を病んで入院したことがあるんだから」と。自分が経験したからこそ、その言葉に重みが出てくる。優しい気持ちが伝わる。そして「いつかきっと、今の経験がよかったと思える日がくるわよ。私のようにね」と言うと、皆救われたような表情になるのです。
人生には、思いもかけない穴があくことがあります。病気だったり、大きな失敗だったり、あるいは大切な人の死だったり。理不尽で辛いことがいっぱいある。
でも、穴があいてはじめて見えるものもあるのです。はじめてわかる他人の苦しみもあります。そしていつか、穴があいたことに感謝する日がきっとくる。私はそう信じています。
穴があいたときには、思いっきり嘆けばいい。どうして私がこんな目に遭うのかと、恨み言を言ってもいい。誰かに弱い自分をさらして泣いてもいい。
そうしてひとしきり嘆いた後に、穴があくまで見えなかったものを見ようと視点を変えてみるのもよいのです。深い井戸の真っ暗闇の底には、真昼でも星影が映ると言われています。つまり肉眼では見えないものが、穴があいたからこそ見えることがあるのです。
「きれい」ではなく「美しく」生きる
思わぬ穴が人生にあいたとき、穴があいたゆえに、それまで見えなかったものを見ようとする力。そういう力が私たちの世代にはあったような気がします。
おそらく戦争という深い闇を経験しているからでしょう。今の人たちはそういう力が弱くなっているようです。自らの力で道を見出そうとしないで、誰かが何かしてくれるのをただ待っている。とても、依頼心が強くなっています。
依頼心が強いということは稚いということです。いつも誰かに頼り、誰かのせいにして、自分のことしか考えない。子どもたちばかりでなく、そういう親がたくさんいます。そこには穴をプラスにする力は育ちません。
どうしてそうなってしまったのか。その大きな原因の一つは、面倒なことをしたくなかったからだと考えています。あまりにも便利な世の中になり過ぎてしまった。便利になればなるほど、人は面倒なことは嫌になってしまう。簡単で安易な方がいいと思ってしまう。
でも、生きていくうえで面倒くさいことはたくさんあります。それを嫌がらずにこなしていくことで、大人になっていくのではないでしょうか。
「面倒だから、しましょう」と、私は学生たちにキャッチフレーズのように言っています。たとえば、家に入るとき、きちんと自分の靴を揃えるのは面倒です。だからこそ揃えるのです。テーブルに水をこぼしたらサッと拭く。洗面所に髪の毛を落としたら、ちょっとティッシュで拭き取る。ついつい面倒くさくてやりたくないことを、丁寧にやる習慣を身につける。その積み重ねで、人間の心は美しくなっていきます。
お化粧をしたり整形をしたりすれば、確かに見た目はきれいになるでしょう。それによって自信が生まれることもあるでしょうから、否定はしません。
ただ、それは「きれいさ」であって「美しさ」ではありません。真の美しさとは自分との闘いの中からのみ生まれるものです。日々面倒なことから逃げずに、自分の言動を見つめること。そこにこそ凛とした美しさが生まれる。
誤解をされたり、誹謗中傷されたり、いじわるをされたりする。生きていればそんなことはしょっちゅうです。でもそこで、やり返したりしてはいけない。いじわるをされたら、いじわるの仕返しをするのでは、相手と同じレベルに下がってしまう。その瞬間に美しさは失われます。
きれいさはお金で買うことができます。しかし美しさはお金では買えません。自分自身の努力で作り上げていくしかないのです。そして美しさとは強さでもあります。穴から、穴があくまで見えなかったものを見ようとするたくましさ。その強さを養うために、美しい生き方をしてほしいと思います。
人生に無駄なものはない
三十年前に患った鬱病は、今でもときおり顔をだすことがあります。ストレスが溜まったときなどには、言いようのない不安感が襲ってきます。心の病はなかなか完治するものではありません。そんな時には早めに寝むこと。「私はそんなに強くはないわ」と呟き、寝んでしまいます。
しかし、休むことさえできない人もいるでしょう。サラリーマンの人たちは、そう簡単に休めるものではありません。まわりに置いていかれまいと無理をせざるを得ない。主婦の人も同じでしょう。心が疲れたからと言って、子育ては待ったなしです。休む暇もなく家事をこなさなくてはならない。
では、休むことさえ許されない人たちはどうすればいいのか。多分、そういう自分を許し、受け入れ、自分と仲良く生きてゆくようにすることが大切なのではないでしょうか。
でも、これだけは言っておきたいのです。
「人生の中で起こるすべての物事に、無意味なものは一つもない」ということを。
穴のまったくない人生などあり得ない。歩む道には必ず穴があきます。でも、その穴の一つひとつに意味を見出し、穴があくまでは見えなかったものを見ましょう。人生には無駄なものはないのです。無駄にすることはあっても。私たちに与えられる苦しみが癒され、心の栄養となる日は必ずやってきます。
ノートルダム清心学園理事長・渡辺和子さん
1927年生まれ。56年、ノートルダム修道女会に入会し渡米。ボストン・カレッジ大学院に学ぶ。ノートルダム清心女子大学教授、学長を経て理事長に。著書に、『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎)『幸せはあなたの心が決める』(PHP研究所)ほか多数。
出典:PHP平成28年9月17日号
ノートルダム清心学園理事長・渡辺和子さんの『すべてのことに意味がある』のまとめ
完璧であろうとするから、できない自分にがっかりしたり、不安に思ったり、それが重症化して鬱病になるのかもしれませんね。
しかし、できない自分や、弱い自分を認めてあげることができれば、そんなに落ち込むこともないのかもしれません。
渡辺さんは、周りから見ればとても順調な人生を歩んできたように見えますが、心の中ではとても苦しかったのでしょう。特に、宗教の道を歩んできたせいもあり、なおさらそう思われたのかもしれませんね。
そして、そのような立場の方が、そのような経験をしたからこそ、学生さんにも説得力があったのでしょう。
私たちも、不安に思う心を持つことや、弱い自分も認めてあげ、ときには休ませてあげることが大切なのかもしれませんね。