映画監督の山田洋次さん「今ある暮らしに幸せを見つける」
映画監督の山田洋次さんは、効率的で便利な世の中になったけれど、本当にそれが幸せなんでしょうか。何か無くしたものはありませんか。そういう問い掛けを、映画と通して語ってきた方です。
物が溢れかえる現代に生きる私たちにとって、考えさせられるコラムでしたので、ここでシェアしたいと思います。
留まることを知らない日本人の欲望の先に、幸福はあるのでしょうか
『たそがれ清兵衛』に続いて、「隠しの剣 鬼の爪」という映画を撮りました。東北地方の小さな藩である海坂藩。そこで暮らす下級武士の片桐宗蔵が主人公です。時は幕末、江戸から遥か遠く離れた北国でも、新しい時代の足音が聞こえ始めた頃の話です。
身の丈に合った暮らしをする
なぜ私が下級武士を描こうと思ったのか。ほとんどの下級武士たちは歴史の中心にいることはなく、歴史に名を残すこともない。おそらく生涯刀を抜くこともなく、ただ鍛錬と精進の日々を送っていた。
片桐宗蔵もそんな貧しい下級武士の一人です。家の庭に畑をつくり、僅かながらの作物を育てる。古びた家財道具を大切に使い、家屋の修理は自分の手でする。親が着ていた着物を縫い直して着る。新しい着物を誂えるなど、一生に一度あるかないかだったでしょう。
それでも彼らは、貧しさに不満を言うこともなく慎ましく暮らしていた。過分な欲望を持つことはなく、身の丈に合った暮らしをしていた。今ある生活の中に、自分なりの幸せを見つけ出そうとしていたのです。そこに私は、現代人が忘れかけている、あるいは無くしかけている大切なものがあるような気がするのです。
妻を亡くした「たそがれ清兵衛」の主人公、清兵衛は、仕事が終わると家路を急ぎます。同僚の酒の誘いも断り、娘が待つ家へと帰る。ある時同僚が聞いた。「お前は毎日仕事場と家の往復ばかりで、いったい何が楽しいのだ」。清兵衛は答えました。「娘の成長を、畑の作物が育つように眺めています。それが自分にとっての幸せなんです。それだけが私の幸せなんです」と。
わが子が日々成長する姿を見つめる。わが子が一人前の大人になる手助けをする。それこそが親の最大の幸福ではないでしょうか。そして、人としての原点ではないでしょうか。その幸福の原点をしっかりと見つめている。そんな父親の姿を描きたかったのです。
今の日本人の欲望は留まるところを知りません。常に新しい物を欲しがる。美味しい物ばかりに目移りする。身の丈以上の生活を求め続けている。そして子供には過度の期待をかけ、能力以上の成果を望む。果たしてそこに本当の幸福があるのでしょうか。
ほんのつい最近まで、日本人は身の丈に合った慎ましい生活を送っていました。少なくとも私が幼少の頃はそうでした。背伸びをすることなく、不満を口にすることなく、慎ましい暮らしの幸せを感じていました。
かつてのような貧しい暮らしが良いというのではありません。ただ、身の丈に合わない生活には、きっと大きな落とし穴がある。そんな気がするのです。
便利になって失ったものがある
便利な世の中になりました。効率化の波がまるで嵐のように押し寄せてきます。
片桐宗蔵がいた海坂藩は、山形県の庄内地方にあります。江戸時代には、江戸から庄内までは一週間もかかっていたといいます。蒸気機関車でさえも、丸一日を要しました。とても不便で、まるで時代から取り残されたような土地でした。
それが今では、飛行機を使えば一時間余りで行くことができる。しかし、それが人間にとってどれほど幸福なことなのでしょうか。
昔は東北地方に行くためには、上野駅から夜行列車に乗り込んだものです。固い座席でガタガタと揺られて、朝、目が覚めると車窓には庄内平野が広がっていた。一面に広がる田んぼには稲穂がたわわに実っている。その風景を見たとき、「ああ、田舎に帰ってきたんだな」という思いがこみ上げてくる。
確かに一時間で着けば、十数時間という時間の獲得ができる。しかし、その十数時間を獲得することによって、奪われたものがある。稲穂を見たときの気持ちの膨らみや、感情の揺らぎみたいなものが失われてしまう。それは悲しいことだと私は思います。
携帯電話などがなかった頃、電話のベルが鳴ると急いで受話器を取りにいった。ところが、受話器を取った瞬間に電話が切れてしまう。「ああ、しまった。誰かだったのだろう。恋人からの電話だったらどうしよう」。一本の電話を取り損ねたことでいろいろな想像をしてしまう。自分の都合のいい想像をしてみたり、悪い想像をしてみたり。そこには人間の心の動きがありました。
また、恋人との会話に詰まったときには、電話のコードを指で弄びながら次の言葉を探したものです。不思議と相手がコードを弄んでいるときは、その姿がはっきりと目に浮かぶ。お互いに相手の姿を思い浮かべながら、言葉のやり取りをする。携帯電話では感じることのできない何かがありました。
効率的で便利な世の中になったけれど、本当にそれが幸せなんでしょうか。何か無くしたものはありませんか。そういう問い掛けを、私は映画というメディアを通して訴えたかったのです。
淡々とした静かな人生を生きる
効率優先の時代には、「男はつらいよ」の「フーテンの寅さん」みたいな人間は必要がないのです。何かを生産するわけでもなく、ただぶらぶらと時間を持て余すように生きているだけ。
でも寅さんがいるおかげで、大笑いしたり大喧嘩をしたり、時には涙をこぼしたりできる。皆が忘れかけていた人間臭さを思い出させてくれる。決して寅さんは不必要な人間なのではないのです。
「寅さん」は、実に多くの人たちに支持されました。経済がどんどん発展し、効率化こそが善だとされる時代にもかかわらず、皆が寅さんを愛していました。それはきっと、皆の心のどこかに、大切なものを無くしてはいけないという気持ちがあったからだと思います。
「ほんとうに寅さんはどうしようもない奴だな」と言いながらも、つい涙を流してしまう。「あんな暮らしができるわけないじゃないか」と思いつつ、どこかで寅さんのような生き方に惹かれている。だから皆、効率優先の社会に疲れたら、寅さんに会いに行きたくなったのでしょう。
「たそがれ清兵衛」は、年配の人たちが多く足を運んでくれました。身の丈に合った暮らしにこそ幸せがある。慎ましい生活だからこそ小さな幸せに感謝できる。そのことを身をもって知っている世代の人たちです。
そして「隠し剣 鬼の爪」では、時代の荒波に飲み込まれることなく、自分の信じる道を貫き通す宗蔵という若者の生き方を描きました。それぞれの生き方が、次世代の人たちに伝わればと願っています。
淡々とした静かな人生を否定してはいけない。まばゆく光り輝くドラマなど、そうそう人生にあるものではないのですから。
映画監督の山田洋次さんによるコラム。
1931年、大阪府生まれ、少年時代を満州で過ごす。東京大学法学部卒業後、松竹に入社。監督して69年より映画「男はつらいよ」シリーズを48本製作し、人気を博す。他に、「幸福の黄色いハンカチ」「キネマの天地」「学校」など数多くの代表作がある。
出典:PHP平成28年9月17日
映画監督の山田洋次さん「今ある暮らしに幸せを見つける」コラムの感想とまとめ
山田洋次さんのコラムは、現代の私達にとって考えさせられる内容だと思いました。
100年前の様な貧しい暮らしが良いわけではないけれど、今の日本人の欲望は留まるところを知りません。常に新しい物を欲しがる。そして、果たしてそこに本当の幸福があるのでしょうか、ということです。
気が付けばたくさんの物が溢れかえり、私たちの生活はとても便利になりました。
しかし、それらの物を永遠と売り続けなければ経済が回らなくなってきてしまっているのも現状です。
都会の企業で働いていた人も、田舎で農業を始める人が増えたりしていますが、物が溢れ始めると、人は質素な生活を求めるようになるのかもしれません。
それは、幸せは物にはないと気が付くからでしょう。
便利さと、効率の良さだけを追い求めることには限界があり、人の心は違うものを追い求めるようになるのかもしれませんね。
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