幸福と不幸はよく、対局のものだととらえられます。幸せが表で、不幸が裏だと。でも、実際は?
人は生まれた環境が違い、自分と他人の状況を比べて、他人をうらやましく思ってみたり、自分の環境が不憫に思えてしまったりするものです。
そんな時、どんな時に幸福とか不幸を感じるのでしょうか。お金が物があふれていることが幸福?それとも、その幸福とはいったいなんでしょうか?
今回はノンフィクション作家の柳田邦夫さんのコラムをご紹介したいと思います。
今は不幸だと思っている状況でも、時がたてばそれが幸福だと思える
人はどんなときに自分の境遇を不幸だと感じるのでしょうか。一言で言ってしまえば、それは落差の中から生まれてくるのです。
それまでは順調だった道を歩んできた。会社の中でもそれなりに出世をし、ローンを組んで自分の家も手に入れた。家庭に平穏な日々があった。子どもに手がかからなくなり、妻は趣味のダンス教室で楽しんでいる。しかし、ある日突然リストラに遭う。職を失い、その上にやっと買った家まで手放さなければならない。広い家から狭いアパートに移り住む。美味しいものを食べられなくなる。着飾ることもできなくなる。その落差に人は絶望感を抱くのです。
落差は心の糧になる
全ての物を失っても耐えられる心。また出直せばいいと思える強さ。何事にも動じない自分。そうした内面のしなやかさをもつことが、幸せな人生を歩む上での糧になると私は思っています。
物を失い、無一文になる。それは表面的には不幸なことかもしれない。しかしそんなことに絶望しないで、これは自分にとっていい問いかけになったと考えてみる。物や地位を失うことで、人間にとって何が一番大切なものなのかを考えてみる。それは、お金でも家でもないはずです。
人間にとってかけがえのないものとは何か。その答えをさがすにはとてもいい機会です。落差を経験することによって、人は内面を見つめることができるのです。現実に今、落差に苦しんでいる人からみれば、何と不謹慎で無責任な発言だと思われるでしょう。それでもあえて私は、落差は心の糧になると言いたいと思います。
病気もまたしかりです。元気いっぱいで働いていたのに、急に重い病気を患ってしまう。もう出世や地位は期待できない。その落差が人の心を壊してしまう。
その境遇を自ら受け入れることです。病気をしたことで、それまでの人生を見直すこともできるでしょう。そこには人の優しさや、本当に大切なものが見えてくるはずです。物を手に入れることで味わう満足感よりも、もっと深い味わいに気が付くこともあるでしょう。
人生は決して平穏な日々が続くことはない。大小様々な落差が待ち受けているものです。その落差に絶望を感じるのではなく、内面を見つめるチャンスだととらえる。そうするときっと、昨日とは違う自分に気づくでしょう。
不幸の中にこそ、幸せの種が落ちている
幸福と不幸はよく、対局のものだととらえられます。幸せが表で、不幸が裏だと。まるでコインを裏返せば幸せになれるかのように。
しかしそれは、あまりにも物やお金に支配された感覚だと私は思います。お金や物がたくさんあれば幸福で、少ししか持っていなければ不幸だと感じる。もちろん私はお金を否定しているわけではありません。でもそれは、人間にとって真の幸福に繋がるとは思わない。
人間は基本的に不幸の中で生きている。私はそう考えています。「どうして私ばかりが不幸な目に遭うのだろう」「周りの人は皆輝いているのに、私には何もない」「ああ、もっと私も幸せになりたい」。こうした気持ちは、おそらくほとんどの人が抱えているのではないでしょうか。誰もが皆、不幸を感じながら生きているのです。
齢を重ね、弱い自分の人生を振り返ってみたとき、そこには幸福のかけらがたくさん落ちていることに気がつきます。「あの頃はたいへんだったけど、けっこう楽しかったなあ」「あの頃はお金がなかったけど、それでも幸せだったなあ」。私もこの歳になって、そんなふうに思うことがあります。
つまり幸福というものは、後になってからしか分からないものなのです。今は不幸だと思っている状況でも、時がたてばそれが幸福だと思える。今を一生懸命に生きていれば、必ず不幸は幸福へと姿を変える。そういう意味で幸福と不幸は、裏と表ではないのです。不幸の中にこそ、キラッと光る幸せの種が落ちている。真の幸福とは不幸の中にこそあるもので、不幸というものを体験せずに幸福になることなどないと私は思っています。
人生の指針となる「心」を伝える
現代の日本の子供たちは、物質的にとても恵まれた状況にあります。何でも欲しいものが手に入る。誕生日やクリスマスには高価なプレゼントを貰える。私が幼かった頃、母は自分が着古した服をほどき、その糸で手袋を編んでくれた。忙しいなか夜なべをして、子どもたちの折々のプレゼントを編んでくれた。母の優しがこもった編み物を貰った時の心の温もり。それは今でも忘れることができません。そして何より、現代の子供より幸せだったように感じるのです。
母が四十一歳のとき、父が他界しました。残された五人の子供を、母は女手一つで育ててくれました。小さな畑で野菜を育て、夜遅くまで内職に明け暮れていました。それは、貧しい生活でした。
そんな母がいつも言っていた口癖があります。「仕方なかんべさ」「何とかなるべさ」「あの人はたいしたもんだ」。この三つの言葉が私の心にしみ込んでいます。自分の境遇を恨んだりするのではなく、いつも前向きに生きようとする。決して人の悪口を言うことなく、常に一人一人の素晴らしい面に目を向ける。
母は田舎の農家の娘です。大した教養があるわけではありません。それでも母のこの言葉は、いかなる哲学者の言葉よりも、私にとってはすばらしいもの。それは今でも自分の人生の原点であり、指針とも言うべき教えとなっています。
こうした親から受け継がれる心の持ち方や言葉を、私は「心の習慣」と呼んでいます。それこそが、大事な「家族の文化」です。高価なものを子供に与えるのではなく、人生の指針となる心を伝える。欲望や幸福にばかり目を向けるのではなく、しっかりと悲しみや辛さを見つめる勇気を教える。それが親としての役割ではないでしょうか。不幸を知らない子供たちは、決して本当の幸せをつかめない。
今は子育てに悩む母親が増えているそうです。何十万人もの母親が、インターネット上で悩みを打ち明け合っている。彼女たちはパソコンを扱う知識をもっている。パソコンを買うお金も持っている。そしてパソコンを置くきれいな部屋ももっている。なのに子供を育てることに悩んでいる。何とも奇妙な話だと思います。家族の文化が壊れた大変な時代です。
何か大切なものを忘れてはいないでしょうか。人間にとって、何が一番大切なのか。そのことを、本気で考える時期に来ている。自分の境遇を恨んでばかりいるのではなく、たくさんの不幸にしっかりと目を向ける。そこから温かな「心の習慣」を生み出していく。親と子が一緒になって、幸せのかけらを探していくことです。
ノンフィクション作家 柳田邦夫さん
1936年、栃木県生まれ。東京大学経済学部卒業。NHK社会部記者、同解説委員を経て、作家活動に入る。人間の生と死をテーマに、医療などの社会問題に取り組み、ドキュメンタリー作品や評論、エッセイを発表している。
出典:PHP平成28年9月17日号
柳田邦夫さんの『不幸を受け入れて幸せになる』のまとめ
柳田さんのお話の感想は、いろいろなことを経験してみないと、それが不幸なのか幸福なのかが分からない、ということかもしれませんね。
生まれてからずっと物に溢れ、欲しいものがいつでも手に入っていては、当人はそれが幸福だとは気が付かない。物がないことを経験できるからこそ、自分の欲しい物が手に入ったときに幸福を感じる。
また、田舎に住んでいれば、都会に憧れるかもしれませんが、都会に住んでいれば田舎暮らしが幸福そうに見えるように。
人の置かれている環境によって、幸福に見えることや不幸に見えることは違いますし、幸福とか不幸は心が決めることで、物があるとか、家があるとか、そういう物質的なことではないのでしょう。