1992年には1000店舗もあった、すかいらーく創業者・横川竟さんの生い立ちからと経験談
約30年前の1992年には、「すかいらーく」は1000店舗もありました。すかいらーくを創業した横川4兄弟は、長野県諏訪市の出身で、幼いこに両親は満州の開拓団だったようです。
その後いろいろな経験を経て、外食産業では知らない人はいない「すかいらーく」を築き上げ、76歳(2013年当時)になっても新しいことに挑戦している横川さん。
そこで今回は、株式会社高倉町珈琲代表取締役会長 横川竟さんのヒューマンドキュメントをご紹介します。
人生、つまらなく生きたらつまらない
家でビールを飲みながら、
「すかいらーく」
と言ってみた。そして台所で洗い物をしているかみさんに、
「娘たちとすかいらーくに行ったころは若かったよなあ」
と声をかけた。私には娘が三人いる。娘が幼いころは、家族そろっての食事はデパートの上階にある大食堂だった。少しゼイタクを感じながら。
娘たちが高校生や中学生になると、わが家のの外食は、海に近い腰越という地にある「すかいらーく」になった。まさしくファミリーレストランである。みんな嬉しい顔をして。
「明日、おれ、取材でね。すかいらーくの創業者に会うんだ。なんだか不思議な気分」
とかみさんに言いながら、こういうめぐりあわせって、人生の幸運、と思った。
六月末のくもりの日、JR国立駅から歩いてすぐの、ビルの二階と三階にある「高倉町珈琲」を訪ねた。私が腰をおろした三階の席から、ガラス越しに一橋大学の木立ちが見える。人や車は見えず、「おれと木立ち」と感じた私は、画家のマチスを呼んで、その景色を明るい色調で描いてよ、と頼む空想が浮かんだ。
小学校では断トツのいたずらっ子
横川竟さんが登場する。昭和十二(1937)年生まれ。私と同い年だ。横川さんとテーブルを挟んで向かい合った私は画家のゴッホを呼んで、「あの有名な絵、タンギー爺さんの肖像のように、横川竟さんを描いてくれないか」と頼む空想をした。その絵の題目は、「すかいらーくおじさん」。
「高倉町珈琲」の静かな空気を、壁に掛けたビートルズのいくつものモノクロ写真が囲んでいる。
「ごめんなさい。あつかましいのかもしれませんが、ぼくはその人の、男なら少年時代の、いわばどんなガキだったかを聞かないと気が済まないんです。自分がトシをとってきて、つくづく、人生ってガキの続きだって感じるもので」
と私が言った。
「長野県諏訪市が故郷で、五人兄弟の三男坊です。教員だった父(正二)が開拓団のリーダーになって、私が三歳のとき、その横川中隊として、一家で満州へ渡ったんですよ。
満州での三年間わたしはたぶん、野犬みたいなもんでしょう、アハハ。豚に餌をやったり、キジをつかまえたり。
父が病気で死んで、一家は長野に戻った。私は六歳かな?母の実家で食べたにぎりめしの、うまかったのと米粒の白さは忘れられないなあ。
諏訪の四賀小学校で六年のとき、この学校開校五十年にして、君は、いたずらっ子としては断トツだったと校長先生に言われた。勉強は見事にしなかったなと。
中学生になるとき、長兄(昭和七年生の端)に、中学生は大人だ、明日から大人になろうと、真剣に言われてね。わたしは本当に、ピタッといたずらをしなくなった。親父は死んでいて、兄貴というのは権威があった」
そう横川さんは語る。
「母親が学校の給食の仕事をしたり、兄の端は学校をやめて時計の精工舎で働き、姉の永子は呉服屋へ住み込み、次男の亮は親戚の養子になったり、わたしも新聞配達をしたりね。
めしを食える人間になりたい。それしかわたしの頭になかったなあ」
三男坊は中学を出て、東京の冷蔵庫を製造している工場に住み込んだ。
「これがひどい。今で言うブラック企業。それも超の字つき。倉庫の隅でベニヤで囲んだ二畳に裸電球。冬は凍って、夏はムシ風呂、休日もナシ。
死にそうな病気をして、二年いた工場を逃げ出して長野に戻った。
ちゃんとめしを食える人間になろう。昭和三十年、十七歳のとき、教えてくれる人がいて、東京の築地の乾物問屋『伊勢龍』に頭を下げて雇ってもらいました。
従業員八人の食事を朝昼晩、四年間作ったなあ。前の工場と違って仕事が面白くて、社長に認められもしたから余計に頭もまわっておもしろい。その四年がわたしの大学、築地大学」
嘘をつかない。品質重視。もうけを目的にしない。この三つの築地大学での教えが、横川さんのその後の人生の根っこになった。
外食産業のトップを走り続けた
一九六二年、二七〇〇戸ある巨大団地、ひばりが丘団地前の商店街のなかの、雑居マーケットの一部に、横川さんは兄弟四人で会社をつくり、「ことぶき食品」を開業する。まだ十代だった四男の紀夫が手伝い、次男の亮も諏訪から出てきて加わるが、長男の端はまだ諏訪にいた。
「団地で暮らす若い母親たちに、どうしたら喜ばれるか。例えば、赤ちゃんの口に入れる安全なものを少しずつだけ分けて売るとか。それに清潔感を出すためにネクタイをし、最終バスがつくまで店を開けていたり」
ことぶき食品は繁盛した。
「めしが食えるようになった。そうなったら、それで終わりではなく、その次は、もうひとつ目標を高くして、めしを食うことの内容を問うていきたい、と思うようになったんですよ。その心境の変化がうれしくて、人生を充実させたい、もっと意味のあるものにしたいと」
やがて大手スーパーの進出がひろがり、長男も経営に参加していた横川家四兄弟の「ことぶき食品」も苦闘を余儀なくされはじめた。
「夢中で商売してきた。この辺で視野を広げる必要があるのではないか。そんなふうに、それぞれが感じていたらしくて、兄弟でアメリカのいろいろを見てこようということになったんです」
横川兄弟のアメリカ旅行による決断は、日本で最初といってよい、ファミリーレストランの開業だった。
「ひばりが丘から出発したのですから、ひばりのスカイラークをネーミングで選んだわけだけど、初めは片仮名のスカイラークがどうもあたたかみに欠けたのか、平仮名のすかいらーくに変えてからは、見ちがえるように親しまれて売り上げが大きくアップしたんですね。いやあ、商売というのは、感覚の勝負でもあるなあと、そのとき、つくづく緊張したもんです」
そう横川さんは昔をふりかえる。
こちらに伝える横川さんの話は明るい音楽のようで、聞き手の私も明るく元気になるのだった。
あっ、そうか。横川兄弟による「ことぶき食品」の営業は、流通業界の開拓団のようなもので、満州へ渡った横川中隊の第二次。ファミリーレストラン「すかいらーく」の出発は、開拓団第三次横川中隊なのだと私は思った。
「仕事と仕事の合間に、ときどき考えましたね。自分には学校の勉強をしなかったという不安はあるけど、いたずらっ子のトップになったという自信はあるぞって。
親は子が、失敗しないように育てる。子も、失敗しないことが一番と思う。
失敗しないように生きてサラリーマンになって、それからも失敗しないように生きるのが、どうやら日本人の大半の生活。
おかげさまで自分は、失敗しないのが目標の人生でなかったのは、いたずらっ子のプライドのおかげだと」
横川さんは声をたてて笑った。
メニューにやさしさをこめた工夫をして「すかいらーく」の翼をひろげ、一九七四年には一〇〇店舗の出店目標を立て、なんと一九九二年には一〇〇店舗どころか、一〇〇〇店舗出店を達成し、外食産業のトップを走り続けたのだった。
しかし、企業もひとつの生命で、時代の流れのなかでさまざまな局面と向きあう。バブルが崩壊して「すかいらーく」が「ガスト」になり、証券会社と組んだ事情とか、「ジョナサン」とか「バーミヤン」などの系列など、企業体の変遷はあるのだが、そこを知りたい気持ちは私にはないのだ。
七十六歳からの起業に「まだやるのか!」
古希を過ぎてそれまでの企業から離れ、いわば「諏訪のいたずらっ子」に戻った横川さんは、講演や外食店アドバイザーをしたりしていたのだが、「七十六歳の起業」というのも愉快じゃないかと、「まだやるのか」という周囲の声も聞こえぬふりして、二〇一三年、六月、パンケーキを主役にしたコーヒー店を、八王子市高倉町にオープンした。
「七十歳になってね、戦い済んで日が暮れてという心境になるのかなって思ってたんだけど、人生、つまらなく生きたらつまらないという若いころの気持ちが消えてくれないんだなあ」
聞いて私は、「おお、開拓団第五次横川中隊!」と受けとった。
「わたしの伯父や父には、士農工商という人間社会への考え方があって、商に進むしかなかったわたしには、商にプライドを持ち続けたいという夢もあるし、それとは別に、仕事があるから面白いという思いから、六十歳を過ぎた人たちに仕事で能力を発揮してほしいという夢など、まだまだいろいろな夢が湧いてくるんですよ」
うれしそうに語る横川さんの声も、歩き方も老人ではない。
カメラマンの注文で横川さんが席をはずし、私は最初のようにガラスごしの木立ちを眺めた。
人間はお金とたたかっている生きものだけれども、孤独ともたたかっている生きものだなあという、いつもの思いを、木立ちと会話しているような気分になった。
席に戻った横川さんに、
「この素敵なテーブルやソファが、孤独とたたかっている人を、励まし、なぐさめるんですよね」
と私は言おうとしたが、言わずもがなと思って黙った。
コーヒーとパンケーキをごちそうになった。
「わたしがすかいらーくのメニューと空気に必死だったころとはちがって、ネット空間の時代となって、社会もはげしく変化しているけれど、人間を支えている心のありようだけは変わらないと思うんです」
そう横川さんが言い、郊外型喫茶店チェーン「高倉町珈琲」の展開にこめた横川さんの狙いが私に伝わってくる。
「外食産業のなかのブラック企業を指摘されるケースがニュースになると、悲しくなって、まだやらねばならぬことがあると」
横川さんの、ほとんどひとりごとである。
株式会社高倉町珈琲代表取締役会長横川竟さん
出典:PHP平成28年9月10日号 取材・文:吉川良